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ニューヨークには世界で最も美しく歴史ある墓地が数多くある。無数の魂の物語が交錯し、いにしえの墓石、壮大な霊廟、さまざまな種類の花や木々、小動物や鳥、昆虫の宝庫でもある墓地を訪ねてみよう。(文・取材/加藤麻美)
それは日本人墓地から始まった 高見豊彦医師とNY日系人会
今年で117年目を迎える日本人と日系人のための福祉団体ニューヨーク日系人会(JAA) 。その成り立ちには一人の医師と日本人墓地の存在があることをご存知だろうか?
その人の名は高見豊彦( 1 8 7 5 ~ 1 9 4 5年)。米国初の日本人開業医で、生涯を貧しい労働者や移民、在留邦人の医療に捧げた「ニューヨーク日系人社会の慈父」である。
コーネル医大を卒業 医師行為通して福音を
熊本県の士族の家に生まれた豊彦は、新島襄(同志社大学創立者)が国禁を破り米国に渡って苦学した話に感動して15歳で出奔。大阪で船員修行をしながら英語を学び1891年3月に英国船に乗って神戸を出港した。同年10月マンハッタン島に到着。学資稼ぎのためにブルックリン区の造船所や軍艦で働きながらコツコツと英語の勉強を続けていたところ、艦長のマックレン大佐の紹介で生涯の恩人となるナンシー・キャンベル女史と出会う。猛勉強し信仰も深めていった豊彦は女史の物心両面にわたる手厚い援助の下、二つの高校を優秀な成績で卒業。ラファイエット大学(ペンシルべニア州)を経てコーネル大学医学部に入学、1906年、2番の成績で卒業した。
進学先を決めるにあたって女史は当初、神学校を勧めたというが、豊彦は拒否。その理由を自伝『輝ける星』の中でこう述べている。
「聖職に就いて、その衣を身に纏ったり、或いは必ずしも聖壇から基督の道を説く必要はない。私はいつもぜひ医者になりたいと思っていた。医術そのものは実に尊い業だ。尚、私は自分の日常生活様式や行為を通じて、一生福音を伝えるものである」
身元不明の同胞遺体 日本人墓地設立を決意
豊彦はコーネル大学在学中、解剖の授業で身元不明の日本人男性に遭遇、番号だけで処理されてしまう現実を目の当たりにし衝撃を受ける。コロンビア大学学生会で在留邦人に「相互扶助と親睦、日本人墓地の購入」の必要性を熱く説き1907年、日本人共済会を設立。これが今日に続くJAAの母体である。豊彦は在留邦人から寄付を募り5年後の12年、マウント・オリベ・セメタリー内に2500ドル(当時)で日本人墓地を購入。13年に墓碑を建立した。
日本人共済会は2年後、高峰譲吉を会長、豊彦を副会長の一人として設立された紐育日本人会と合併、41年の日米開戦で米国政府に解体・凍結されるまでニューヨーク市における在留邦人のための唯一の相互扶助団体として活動を継続した。
現在のJAAは敗戦の翌年46年に発足した日本救援紐育委員会(※)と凍結を解かれた紐育日本人会を吸収し、その活動を継承したもので、ニューヨーク地区の日系コミュニティーを代表する福祉・日米親善団体として各方面から大きな信頼を得ている。
(※)1946年「日本救援紐育委員会」を発足し、ララ(LARA-Licensed Agency for Relief in Asia)を通して敗戦下の日本に粉ミルクや粉卵、綿布などを295トン、当時の価格で16万ドル相当を5年間にわたって送った。
高見豊彦医師
現在のブルックリン区ダンボ地区に住居を兼ねた診療所を開いていた高見医師は、貧しい患者からは治療代を取らなかった。米国で日本人医学生と医師に多大な影響を与えた(写真: JAA提供)
マウント・オリベ・セメタリーにある日本人墓地。日本人と日系人、身元不明者約百人が埋葬されている(写真: JAA提供)