ーヘルシーで&#
ニューヨークで食べ歩くことは、単なるレストラン巡りではない。年間100軒以上の店を訪れる中で出会うのは、味よりもむしろ、人、背景、コミュニティー、そして価値観の衝突と更新。ニューヨークという「濁流」に身を投じることで見えてくる“食から始まる都市理解”を人間模様と共に立体的に紐解いていく連載。

皆さんに聞きたい。ワインについてどう思うだろうか。「高尚すぎてよく分からない」「難しいし高い」「自分には味の違いが分からない」…。そう感じる人も多いのではないだろうか。実は、かつての私もそうだった。だがワインの世界を知るにつれ、一つの考えにたどり着いた。〝ペアリングは掛け算だ〟料理とワインが出会うと、味はまったく別の表情を見せる。想像していなかった奥行きや余韻が生まれる瞬間がある。その想像を超える瞬間こそが、食の本当の感動なのだと思う。
今回は、NA:EUN Hospitality(ナウン・ホスピタリティー)のビバレッジディレクター、Jhonel Faelnar(ジョーネル・フェイルナー)の話をしたい。米国のワイン専門誌で年間最優秀に選ばれた、ニューヨークを代表するソムリエの一人だ。Atomix(アトミックス)、Atoboy(アトボーイ)、Naro(ナロ)などニューヨーク屈指のレストランの飲料プログラムを統括する。Atomixは2025年の世界のベストレストラン50で12位、ミシュラン2つ星を7年連続で獲得している。学生時代に柔道で結果を残し、日本の一流企業で働き、大阪で友人たちとの宅飲みや会食を通じ、料理と飲み物が生む〝発見〟を重ねてきた彼が、いま世界トップクラスのレストランで伝えているものとは何か。今回はワインの魅力だけでなく、彼の人生にも焦点を当てながら、彼がどんな世界を見ているのかを共有したい。この回が、皆さんの次の食体験をまだ知らない発見へと導くきっかけになれば、これほど嬉しいことはない。
好きなことには徹底して集中する─それが後にワインにつながった
まず率直に聞いた。ワインや食の世界の魅力とは何だろうか。「僕が一番大切にしているのは〝ディスカバリー〟。知識は、飲む瞬間への集中を生み、味わいを記憶に刻む。最初は意味の分からないパズルも、やがて一枚の絵になる。そのとき思いもよらない世界の扉が開く。その発見は飲めば消える一瞬の芸術だ。だからこそ、時に体が震えるほどの感動を生む」
幼少期についても聞いてみた。「僕はフィリピンのマニラで育ちました。アドボやパンシット、ルンピアといった郷土料理が日常の食卓にありました。祖母からは『家族に貢献しなさい』とよく言われていて、食後の皿洗いはいつも僕の役目。料理はあまりしませんでしたが、炊飯器を使わず、指で水加減を測って直火で米を炊くのは得意でした。子供の頃は、食よりもスポーツと音楽に夢中でした。フットボール、バスケットボール、体操、バドミントン。高校から柔道を始め、大学でも続けました。音楽ではクラシックギターを大学まで弾き、街中や結婚式で演奏することもありました。好きなことには徹底して集中する性格で、それが後にワインのキャリアにもつながったのだと思います」
彼は、マニラの名門アテネオ・デ・マニラ大学で管理工学を学んだ。学生時代は柔道に打ち込み、主将として大会優勝も経験している。ただ、減量の影響で一時期、食べることが敵のように感じられた時期もあったという。大学卒業後の2011年、最初の仕事は日本だった。小学校から大学まで16年間同じキャンパスで過ごしてきた彼にとって、外の世界を見たいという思いが強かった。グローバル採用プログラムを通じてユニクロ(株式会社ファーストリテイリング)に入社し、大阪で働くことになる。「言葉も文化も違う場所で、一人で暮らし、働く。大阪での生活は、まさにディスカバリーの連続でした。日本の食文化にも触れました。また、世界中から集まった同僚たちと家に集まり、食事をしてお酒を飲む。高価なものでなくても、そこには〝食べて飲むことの楽しさという発見〟があったんです」
新しい街、新しい味との出会い
日本での飲食体験についても聞いてみた。「印象的な体験は、会社の会食でした。上司が少し良いレストランに連れて行ってくれて、お酒を料理と合わせて飲んだんです。『こんな組み合わせがあるのか』と驚きました。僕にとってアルコールは、酔うためのものというより、新しい味に出会うためのものだったんです。大阪の地下鉄にあるリカーショップでボトルを買って、友人たちと家で飲む。勉強というより、みんなでお金を出し合って、買えるものを選ぶ。そんな時間がただ楽しかった」
当時から料理とのペアリングを意識していたのだろうか。「その頃は、ただみんなでテーブルを囲む時間が楽しいという感覚でした。本格的にワインを意識し始めたのは、ニューヨークに来てからですね。実は日本へ行く前に、一度ニューヨークに6週間ほど滞在したことがあったんです。街を歩き、地下鉄に乗り、ニューヨーク中を回りました。若かったから、ただ街を歩くだけでも楽しかった。夏でも人々が外にいて、街が生きていると感じました。ここなら何かを変えられる。ニューヨークにはその力がある、そう感じた。その体験がずっと心に残っていたんです。日本での仕事が終わる頃、『帰国するのではなくニューヨークへ行こう』と決めました。それが2013年です」
勝つまで負け続けた柔道が教えてくれたこと
ニューヨークへ来た理由についても聞いた。「人に話すと驚かれるんですが、ニューヨークに来た当初は仕事の計画がなかったんです。今思うと正気じゃないですよね(笑)でも当時は、きっとうまくいくという妙な自信がありました。ニューヨークは、努力する人にチャンスを与えてくれる街だと思っていたんです。それまでの人生で、挑戦して成功した経験もあれば、同じくらい失敗もしてきました。柔道なんて、勝つまでに本当にたくさん負けました。でも負け続けるうちに、ある時から勝てるようになる。だから僕の中では、成功には失敗が必要だという感覚が自然にあったんです」
ニューヨークに来た当初は、再びアパレル業界に戻ることも考えていたという。コンサルやファイナンスなど、別の分野の可能性も探っていた。そんな模索の中で、ふと日本での時間を思い出した。「日本で友人たちとテーブルを囲んで、楽しくワインを飲んでいたことを思い出したんです。それで、ワインを試してみようと思いました」
NYは〝夢の遊び場〟
なぜそれほどまでにニューヨークとワインに惹かれたのだろうか。「ワインに情熱を持つようになったのは、ニューヨークではワインが〝夢を見る方法〟だったからです。ヨーロッパに行ったことはありませんでしたが、ブルゴーニュのシャルドネを飲むとフランスにいる自分を想像する。ドイツのリースリングを飲めば、ドイツの風景を思い浮かべる。ニューヨークは、そんな〝夢を試せる遊び場〟のような場所でした。しかもこの街には、ダイニングの文化があります。空間のデザインや店の雰囲気、テーブルで起きる出来事そのものが文化として存在している。そこがとても刺激的だったんです」
そんな中で、ワインの世界への扉が開く。求人サイトのクレイグスリストで、ニューヨークのレストランAmali(アマリ)のアシスタントソムリエ募集を見つけたのだ。経験はゼロ。それでも応募した。オーナーのJamesMalios(ジェームス・マリオス)は、未経験だった彼にまずバリスタとして働く機会を与えた。そこで初めてレストランのオペレーションを学ぶことになる。
その後、料理学校の国際調理センター(ICC、2020年にICEへ統合)で、ソムリエ資格取得を目指す集中トレーニングプログラムに参加。昼は学校、夜はレストランという生活が始まった。同時期には、ワイン&スピリッツ誌でインターンとして働き、ワインのデータベース管理を担当した。「最初はボトルの情報もほとんど理解できませんでした。畑の名前も地域名も、すべて別の言語のようでした。でもワインはパズルのようなものなんです。最初は意味が分からない。生産者、産地、ぶどう品種、ヴィンテージ。ピースを集めていくと、やがて絵が浮かび上がる。集め続けると全体像が見えてくる。インターンでは、プロのテイスターが一度に30本ほどのワインを試飲する場にも立ち会いました。そこでボトルの写真を撮り、味わいを記録し、感想を書き留める。そんな作業を繰り返しながら、少しずつ基礎を積み上げていきました」
ソムリエ試験合格後、ニューヨークのレストランThe Fourth(ザ・フォース、閉店)や当時大人気だったThe NoMad Restaurant(ザ・ノマドレストラン、閉店)で経験を重ね、やがてAtomixのチームに加わることになる。「NoMadは楽しく、将来の展望もありました。でも、シェフJPとエリア・パークが作ろうとしているものには、まだ誰も見たことのない特別な可能性があると感じたんです」
ワインがくれたギフト
ワインを学ぶことで何か変化はあったのだろうか。「ワインを学び始めてから、僕は〝今この瞬間〟により集中するようになりました。以前は、ただ美味しいで終わっていた体験が、飲み物や食べ物、その組み合わせ、そして一緒にいる人たちにも意識が向くようになったんです。以前よりも、〝この瞬間にいる〟という感覚が強くなりました。今では、口の中で何が起きているのかを感じ取り、それを記憶し、すぐに引き出せるようになっています。例えば、バルセロナで1955年のリオハ(スペインを代表するワイン産地)のワインを飲んだときの味は、今でもはっきり思い出せます。味や香りは、記憶のスイッチのようなものなんです。それが、ワインが僕にくれた一番のギフトかもしれません」
その記憶力はどこから来るのだろうか。「祖母の影響もあると思う。祖母はとても記憶が鋭く、1930年代の出来事をまるで昨日のことのように語っていました。もし少しでもそれを受け継いでいるなら、とても幸運なことです。そして大事なのは、味わうことに集中すること。強い感情が動いた体験ほど、記憶に深く残るんです」
宝探しのような「ディスカバリー」
NA:EUNのペアリングにはどんな哲学があるのだろうか。「一言で言えば、〝ディスカバリー(発見)〟です。僕が感じているのは、ワインの世界は決してマスターできないこと。新しいワインは次々と現れる。終わりがない。だから面白いんです。ペアリングでは料理が主役です。料理が美しくても、ワインが合わなければ体験を壊すこともあるし、逆にシェフも想像しなかったほど良くすることもできる。ワインは、料理の世界を静かに広げられる存在です。もちろん有名なワインも扱います。でも小さな生産者や、あまり知られていないぶどう品種でも、驚くほど美味しいものがある。たとえばアゾレス諸島のアリント。そうしたワインも正しい料理と合わせることで、圧倒的な体験になります。韓国料理はワインに合わないと思われがちですが、繊細な料理は実はとてもよく合う。ブルゴーニュやシャンパーニュだけでなく、まだ広く知られていないワインも積極的にペアリングしています。講義のようではなく、『これを飲んでみて、すごいよ』と友人に勧めるように。そんな宝探しを楽しむ体験です。ワインは芸術にも似ています。でも絵のように残らない。飲んだ瞬間に消えてしまう。だからこそ、その一杯には一回性の美しさがある。その瞬間に集中して味わうこと自体が、ワインの魅力だと思っています」
最後に、読者へのメッセージを聞いた。「外食をするときは、ぜひソムリエに話しかけてみてください。何が好きで、何が苦手なのか。それを教えてもらえれば、その夜あなたを幸せにする一杯を見つけることができます。無理にたくさん飲む必要はありません。半分のグラスでもいい。飲み物は人生を豊かにしてくれるものだから」
皆さんにも、ぜひこの一歩を踏み出してほしい。〝ディスカバリー〟を。その一杯が、まだ知らない世界への扉を開くかもしれない。
Jhonel Faelnar (ジョーネル・フェイルナー) Instagram:@jhonelfaelnar
NA:EUNホスピタリティーのビバレッジディレクター兼LikhaWine社の共同創業者。ワールド・ベスト・ソムリエ・セレクション2024会長。ワイン・エンスージアスト誌2023ビバレッジ・ディレクター・オブ・ザ・イヤー。
●Atomix(アトミックス)
ミシュランガイド2つ星(ニューヨーク) 2025年、世界のベストレストラン50:12位。北アメリカベストレストラン50:1位。
104 E. 30th St.
●Atoboy(アトボーイ)
43E. 28th St.
●Naro(ナロ)
610 5th Ave. Rockefeller Center Rink Level
小柳津 晨平 (おやいづ しんぺい / Shimpei Oyaizu)








