巻頭特集

ニューヨークの秋 最旬・読書案内

ニューヨークに秋が訪れた。木々が色づきはじめるこの季節は、本と静かに向き合うのにぴったり。第一線で活躍する作家や編集者の言葉を手がかりに、この街で読書をする愉しさを探ってみたい。(文・取材/篠原諄也)


『マチネの終わりに』『ある男』『本心』などの小説で知られ、現代の日本文学を代表する小説家・平野啓一郎さんが、この夏に家族とともにニューヨークに拠点を移した。新しい環境に身を置くことで「文化的刺激」を得られることを期待しているという。そんな平野さんに海外生活への思いを語ってもらった。—ニューヨークに2年ほど住むそうですが、拠点を移してみていかがですか。

刺激が多く面白い街ですよね。東京に20年ほど暮らして、さすがにちょっと長すぎるなと感じていたので、環境を変えたいと思っていました。日本は経済的にも文化的にも政治的にも停滞感があり、その渦中に身を置いて創作活動をしてきましたが、外から相対化して見る視点の必要も感じていました。

今回、家族と一緒に移住しました。子供達には若いうちから多様性に触れる体験をしてほしいと思いました。妻は僕と同い年でモデルとして活動していますが、彼女も新たなライフスタイルを発信するなど、活動の幅を広げることができる。そういう意味でも、ニューヨークは魅力的な街です。

これまでオースターやカポーティの作品を読む時、舞台がどこなのかをあまり意識していませんでしたが、今改めて読み返すと、どの辺りを描いているかがリアルにわかります。映画を見ていても同じですね。あと僕はジャズが好きで、マイルス・デイヴィスの自叙伝を座右の書にしているんですが、そこに出てくる「何丁目で何をした」という記述も、今ではよくわかります。僕が住んでいるアパートは1964年に建てられたんですが、人通りの多い場所にあるので、もしかしたらマイルスの視界に一瞬入っていたかもしれない。自分が親しんできた世界と自分とが、時代を超えてコネクトするような感じがあります。

—ニューヨークの多様性は平野さんの提唱する「分人主義」と響き合います。「本当の自分」という一つの人格があるのではなく、対人関係や環境ごとに分化した複数の人格全てが自分だという考え方です。

「自分はこうだ」と決めつけるのではなく、多様な人と出会いながら複数の自分を自由に生きる。その過程で吸収したものが能力となって、自分を豊かにしてくれることを楽しみたいですね。そうした経験がなければ、人間は、アプリの入っていないiPhoneのようになってしまう。新しい環境に身を置きたいと思った理由の一つです。

米国では先日のチャーリー・カーク殺害事件のように、政治的暴力が「ありきたり」となっていて、恐ろしいことです。どんなに相手の主張に賛同できなくても、やはり話し合う手立てを探らなければいけません。そこで一つの方法となるのが、分人化だと思っています。人間の中には多様性がある。政治の話をすればけんかをしてしまうような相手でも、野球やジャズの話題であれば、楽しく語り合えるかもしれません。まずはそうしたコミュニケーションの回路を維持し、そこから政治の話に広げていく。そうすれば、意見が違っても、少しは落ち着いて話せると思うんです。

社会が分断している時、人々は一つの大きな統合的価値によって乗り越えようとします。しかし、それは無理なのではないか。むしろ、個々の人間が持っている多様性を通じて細やかなネットワークを作ることで、完全な分断を回避する方が現実的です。これは経済学者のアマルティア・センも指摘していることでした。自らの多様性を意識し、分人化を通じて、他者との接点を探っていく。そのためには、社会において、文学や映画、スポーツなどは非常に重要だと思っています。

—海外生活は今後の創作に生かされますか。

短編ならいくらでも書けると思いますが、次の長編をどうするかはまだ決めていません。直接的にニューヨークを描くというより、しばらくここで暮らすことで自然に受ける影響に期待しています。カフカではありませんが、現実をメタファー化したような寓話的な書き方ができないかと考えています。今の米国は政治的にも不安定で、知人の米国人からは「なぜこの時期に来たのか」と言われることもあります。しかし、今の状況を観察し、吸収するには良い時期です。世界の混迷の中心のようなこの街で、それをうまく表現できるような物語を考えたいと思います。


平野啓一郎
(ひらの・けいいちろう)

1975年生まれ。小説家として数々の作品を発表し、各国で翻訳されている。著書に『日蝕』『マチネの終わりに』『ある男』『本心』『富士山』『私とは何か 「個人」から「分人」へ』など。

最新刊『文学は何の役に立つのか?』(左)『あなたが政治について語る時』(右) (ともに岩波書店)

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