レトロ作品 まったりレビュー

今週の1本 ノルウェイの森

映画監督・鈴木やすさんが、思い出の映画作品を、鑑賞当時の思い出を絡めてゆったり紹介します。


ちょうど僕が二十歳の年、ある日、本屋の一番目立つ場所に上下巻で鮮やかな赤と深い緑の綺麗な装丁の本が高く平積みされていた。ベストセラーだそうである。村上春樹。

聞いたことのある作家の名前だが一度も彼の小説を読もうとしたことはなかった。カバーのあまりの美しさに思わず「ノルウェイの森」を上下巻と合わせて買ってしまった。二十歳の僕が読んだ感想は「えっ、この人も死んじゃうの?」「この人とも寝るの?」とかあまり印象に残るものではなかった。

登場人物と同じ歳だった僕は僕なりに人生を早足で駆け抜けていて忙しかったのだ。その後も村上春樹の作品を手に取ることはなく20年以上が経ち、ニューヨークで俳優になった僕は、ソーホーにあった劇場で「ねじまき鳥クロニクル」の舞台に立つことになり、今度は仕事絡みで再び村上春樹を読み始めた。そして40歳を超えた僕は再び手にした「ノルウェイの森」にとても驚いた。一度読んでいるはずのこの小説の印象が二十歳の頃とはまるで違っていた。ページごとの世界観が、一行ごとの描写が、砂漠に降る数年ぶりの雨のように僕の心にも体にも沁み入っていった。若ければ感性が豊かだとは限らない。歳を重ねた分だけ心のひだに触れる感性だってある。

熱烈なファンの多い村上春樹の作品の中でも最も支持者の多いこの作品は映画化を疑う声や映画への批判も多かったと聞く。しかし2時間を超える映画の中でユン監督のこの作品に対する思い入れが全てのカットに詰まっていて、心のこもっていないカットが見事にひとつもない素晴らしい映画だったと僕は感じた。

 

犠牲者たち

娘が生まれる数年前、サンフランシスコを起点にネバダ、ユタ、アリゾナ、ニューメキシコを妻と二人で車で駆け抜ける旅をした。ヨセミテ国立公園を横断するため、深い緑のセコイア杉の森の中をひたすら走っていると突然視界がサーッと広がり、どこまでも続く草原に抜けた。名前の知らない可愛らしい白くて小さな花が遠くの山の麓まで見渡す限り広がっている。あまりの美しさに車を停めて、妻と二人で草原を歩くことにした。妻も僕と同じく言葉にならないほど感動しているのが伝わってきた。爽やかな風が駆け抜け、ミツバチの羽音が耳元を行ったり来たりしている。遥か彼方の頂上に雪をかぶったシェラネバダの山麓を静かに見上げている時、自分が今、42歳で病死した一人目の母と同じ歳になっていることに気づいた。

これから先の僕の人生は母が経験できなかった人生を歩むことになる。母ができなかった分の感動と経験を大切に生きていこう。そう思ったら涙が自然にこぼれた。そして僕を15歳から育ててくれた二人目の母は5年前のある春の午後に一人で自ら命をたった。

村上春樹はこの作品について「この話は基本的にカジュアルティー(犠牲者たち)についての話なのだ。それは僕の周りで死んでいった、あるいは失われていった少なからざるカジュアルティーズについての話であり、あるいは僕自身の中で死んで失われていった少なからざるカジュアルティーズについての話である」と語った。僕の周りにも時代にのみこまれていった人々、人生にのみこまれていった帰らぬ人達がいる。次第に色褪せていく記憶の中でその人たちは永遠に歳を取らない。でも僕は今年の二月にまたひとつ歳を重ねる事になる。

 

 

 

今週の1本

ノルウェイの森

公開: 2010年
監督:トラン・アン・ユン
音楽: ジョニー・グリーンウッド
出演: 松山ケンイチ、菊地凛子、水原希子
配信: Amazon Prime Video、Tubi他

1968年、神戸から東京の大学に進んだトオルは自殺した親友のかつての恋人、直子に街でばったりと出会う。

 

 

鈴木やす

映画監督、俳優。
1991年来米。ダンサーとして活動後、「ニューヨーク・ジャパン・シネフェスト」設立。
短編映画「Radius Squared Times Heart」(2009年)で、マンハッタン映画祭の最優秀コメディー短編賞を受賞。
短編映画「The Apologizers」(19年)は、クイーンズ国際映画祭の最優秀短編脚本賞を受賞。
俳優としての出演作に、ドラマ「Daredevil」(15〜18年)、「The Blacklist」(13年〜)、映画「プッチーニ・フォー・ビギナーズ」(08年)など。
現在は初の長編監督作品「The Apologizers」に向けて準備中。
facebook.com/theapologizers

 

 

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