レトロ作品 まったりレビュー

今週の1本 Vidal Sassoon: The Movie How one man changed the world with a pair of scissors

映画監督・鈴木やすさんが、思い出の映画作品を、鑑賞当時の思い出を絡めてゆったり紹介します。


このコラム初のドキュメンタリー映画を紹介します。この映画の公開時にイーストビレッジの映画館で妻と2人で見た。その夜、僕はこの映画に創造性を刺激されて、酒を飲みながら妻の髪をじっと見つめて言った。「今なら君の髪を切れるかもしれない」。

一緒に飲んで酔っ払っていた妻も、僕のあまりにも自信に溢れた目を見て「そうね、今のあなたならできそうね」とはさみを僕に手渡した。もちろん美容学校で修行したこともなければ、人の髪の毛など切ったことは一度もなかった。酒に酔った勢いで本当にはさみを振り回してバッサバッサと妻の髪を切り始めた。勢いというものは怖い。「馬鹿(ばか)に鋏(はさみ)は持たせるな」である。

何が怖いって、これが結構うまく切れちゃったから怖い。その後1年間ほど、僕は妻のショートヘアーを切り続けた。美容院代が浮いたし、妻も僕のヘアカットを結構気に入っていた。あの時、はさみを僕に手渡した妻の勇気と、信頼に感謝している。よい子は決してまねしないようにね。

ヴィダル・サスーンといえば、美容院の棚にずらりと並べられていた、シャンプーやコンディショナーなどのヘアケア製品を覚えている方も多いと思う。けどそれを開発したサスーン本人の経歴や、生い立ちを知る人はあまりいない。

迫害を逃れてウクライナからロンドンのユダヤ人街に移り住んだ母と、ギリシャ出身のユダヤ人の父の元に生まれたヴィダルだが、3歳の頃に女癖の悪かった父が家を出て行ってしまい、母と幼い弟と共に極度の貧困に陥り、彼は孤児院に預けられた。孤児院を出た後もキリスト教系の学校では、ユダヤ人としていじめを受けながらも第二次大戦のロンドンを生き延びた。戦後に義父が見つけてきた美容院の見習いの仕事を始めた時は、自分が人の髪の毛をいじって生計を立てるようになるなんて、想像もできなかったそうだ。この映画の一番の見どころが、古い価値観の1950年代から新しい時代が花開く、60年代、70年代にかけて彼が成し得た偉業だ。

僕の世代の読者は、昭和の街の美容院にあった、頭からすっぽりかぶるヘアドライヤーの中でじっと我慢していた女性たちの光景を覚えているだろう。それまで多くの女性は、人前に出るたびに週に何回も美容院に通い詰め、髪型のボリュームを人工的に上に高く見せるために、バリバリにヘアスプレーをかけられる負担を余儀なくされていた。

ヴィダルは60年代に現れた新しい芸術の波、特にシンプルで幾何学的な建築物の数々に触発されて、誰もしたことのない独特の角度とデザインの女性の髪型を生み出した。そして多くの女性たちは洗い立ての髪をサッと乾かすだけで、自然な髪のツヤと当時のファッションに合った斬新なデザインの髪型を手に入れ、ベタべタのへアスプレーや毎週の美容院通いから解放され自立して歩き始めた。そして美容界、ファッション業界のビジネスモデルも根本から変えてしまった。それがこの映画の副題の意味だ。

 

不要不急

コロナ禍の日本では「不要不急」という言葉が飛び交い、僕たちのような芸能業界も辛苦をなめた。どの職業がエッセンシャルで、どの職業が今は要らないか、政府のシビアな営業制限要求と、SNSで蔓延した誹謗中傷や忌まわしい自粛警察などは、まさに戦時中に逆戻りしたようだった。しかし、戦後の政治と日本社会がいまだに成し遂げられず遅々として進まない女性の権利の意識と、生活の向上をはさみ一本で成し遂げた彼の映画を見て、「不要不急」という言葉を簡単に拡散する前に、今一度深く考える機会にしてほしい。

 

 

 

 

 

今週の1本

Vidal Sassoon: The Movie
How one man changed the world with a pair of scissors
(邦題: ヴィダル・サスーン)

公開: 2010年
監督: クレイグ・ティパー
音楽: デヴィッド・スペルマン
出演: ヴィダル・サスーン
配信: Amazon Prime、Apple TV他

1960年代に「サスーンカット」を編み出し、美容界の歴史を変えたヘアスタイリスト、ヴィダル・サスーンのドキュメンタリー。

 

 

 

 

鈴木やす

映画監督、俳優。1991年来米。
ダンサーとして活動後、「ニューヨーク・ジャパン・シネフェスト」設立。
短編映画「Radius Squared Times Heart」(2009年)で、マンハッタン映画祭の最優秀コメディー短編賞を受賞。
短編映画「The Apologizers」(19年)は、クイーンズ国際映画祭の最優秀短編脚本賞を受賞。
俳優としての出演作に、ドラマ「Daredevil」(15〜18年)、「The Blacklist」(13年〜)、映画「プッチーニ・フォー・ビギナーズ」(08年)など。
現在は初の長編監督作品「The Apologizers」に向けて準備中。
facebook.com/theapologizers

 

 

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