アメリカに落語の花を咲かせましょう

〜第15回〜 ちりとてちん

異なるジャンルで活躍する当地の日本人が、不定期交代で等身大の思いをつづる連載。


「ちりとてちん」という噺(はなし)は、テーマはそのままで登場人物と台詞のまるっきり違う「酢豆腐」という噺と共に、夏の代名詞といえる演目です。足が早い、と言いますが、腐りやすい食べ物にことさら気を付けなくてはいけない季節の真っ只中ですね。

この噺には日本人の大好きなタイの刺身やウナギのかば焼、「灘の生一本」と出てまいりますが、現在英訳をし、英語での稽古をしていますが、訳出に苦労をしております。日本語のままにするか、日本語を使わない人にもわかりやすい言葉に変えるか、いっそテーマはそのままに舞台をアメリカに変えて「ちりとてちん」「酢豆腐」に続く第3の噺をこしらえるか、日々格闘しております。

 

 

食中毒事件で
一人難を逃れる

高校一年の夏休み、ラグビー部の合宿はラグビー合宿のメッカ、長野県の菅平でした。炎天下の中、毎日朝から夕方まで激しい練習と試合を繰り返し、部員はぐったりしていました。足は疲労骨折寸前、当時は練習中に水も飲めず、日陰で休むことも許されないまま、ダッシュをひたすらする地獄の日々でした。そんな中で事件は起きました。

昼食で出た山菜そばの山菜が腐っており、部員が食中毒を起こし、その日と次の日の練習が中止になりました。ところが、僕だけは何の症状もなく元気で、練習は休み、ここぞとばかりに合宿所の周りをのんびり帽子をかぶって(ヘッドギアじゃないのがうれしかったです)散歩したのを覚えています。

他の学校の練習をのぞいたり、草原を歩いたりと大して面白くはありませんでしたが、誰にも触れることなく(練習では臭い男同士で触れ合ってました)、喋ることもなく(岩崎恭子さんが金メダルを取って、そんな話題が多かったです)、走ることなく歩いている時間は生きた心地がしたものでした。仲間は吐き気や腹痛で練習より地獄だったようですが。

15歳の夏
落語との出会い

結局僕は試合中のタックルで鎖骨を折り東京へ帰り、何も出来ない、そして平和な日々を迎えました。毎日図書館へ行き、好きなだけ本や雑誌を読む、そんな天国へ地獄から引っ越したわけです。そして、落語に出会います。

なんの気なしに手に取った落語の本「現代落語論 立川談志」、そしてカセットテープの「天災」「鼠穴」。そして談志師匠の師匠の師匠、今となっては僕の大師匠、五代目柳家小さんの「ちりとてちん」に出会うまでも大して時間はかかりませんでした。次々に落語のテープを聴き、落語関連の本を読み、夏休みが明ける頃には、一端の落語マニアになっていました。それからラグビー部はやめて、放課後は寄席や落語会に通う日々になり、どうせ付属の大学に入れるんだからと数学の学習塾もやめてしまいました。

夏が来るたびに、落語に出会った15歳のあの頃を思い出します。図書館から帰った夜、折れている左の鎖骨が蒸れて不快で、そして冷房のない自室でヘッドフォンを付けて耳にも体にも汗をかきながら落語を聴く日々。落語にハマる前と後ではすっかり世界の見え方が変わってしまった。「人間の業の肯定」というが、その「業」って何だ、高校生の僕には到底わからなかったですが、落語がどうやら単なるお笑いじゃないぞ、と感じていました。

柳家小三治師匠のまくらで「卵かけご飯」という名演があります。夏に食欲がない時の噺です。これを聴くたびに僕は無性に卵かけご飯が食べたくなり、スーパーの安い卵をご飯にかけます。

アメリカの生卵は危険だっていうけど、そうやって毎回「ちりとてちん」を浮かべながら恐る恐る卵かけご飯をかき込みますが、やっぱり僕のお腹は何ともありません。さすがに腐った豆腐に挑戦するつもりはありませんが、自分の心身の繊細さって何だろうと、道端の健康なヒマワリに問いかけたくなります。

【次回予告】

次号は、Akoさんのエッセー第5回をお届けします。

 

 

 

 

 

柳家東三楼
(やなぎや・とうざぶろう)

東京都出身。
1999年に三代目・柳家権太楼に入門。
2014年3月に真打昇進、三代目・東三楼を襲名した。
16年に第71回文化庁芸術祭新人賞を受賞。
19年夏よりクイーンズ在住。
演出家、脚本家、俳優、大学教員(東亜大学芸術学部客員准教授)としても活動。
紋は丸に三つのくくり猿。
出囃子は「靭(うつぼ)猿」。
現在、オンラインでの全米公演ツアーを敢行中。
落語の無料オンラインレッスンあり、詳細はウェブサイトへ。
zabu.site

 

 

お知らせ
全米落語協会、発足!

日本の落語を、世界の「RAKUGO」へ! 東三楼さんの取り組みがいよいよスタートします。

4月1日より、クラウドファンディングも開始。支援に興味がある人は、メール(us.rakugo@gmail.com)で東三楼さんにご連絡ください。

 

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