今年9月にアラ&
異なるジャンルで活躍する当地の日本人が、不定期交代で等身大の思いをつづる連載。
二ツ目時分に「七段目」という演目をかけました。この噺(はなし)は芝居好きの若旦那と丁稚(でっち)の小僧が「仮名手本忠臣蔵」の七段目の真似をして大目玉を食う噺ですが、この演目をかける噺家は根っからの芝居好きで、踊りから殺陣(たて)から何でもございの芸人ですので、芝居の口調やしぐさが入る場面はまことにリアルでうまい。劇中の若旦那や小僧ってそんなにうまいのかってくらいにやります。
一方で私は恥ずかしながら歌舞伎の素養に欠けていて、「それくらいの方がかえって若旦那も小僧も素人っぽくてリアル」と変な褒め方をお客様にされた思い出があります。
芝居のワークショップに参加
このたび、こちらの連載を交互でしているAkoさんにお声をかけていただき、「Chushingura-47 Ronin」のワークショップに8日間参加させていただきました。自分で作っている落語の芝居以外で俳優として出るのは5年ぶりです。Akoさんにご連絡をいただき、オーディションを受けまして参加させていただきました。
セリフの量も多く、普段落語では使わない言葉ばかりで、夜の目も寝ないで一心不乱に台本と取り組みましたが、やはり芝居と落語は違います。落語は全部のセリフの応酬を一人でやりますので、相手役も相手役の相手役も自分ですので、セリフの終わりや間も自分で出来ますが、芝居は当たり前ですが共演者とのやりとりです。しかし、この当たり前が毎度難しい。そして落語は座ったままですので、足を動かしてセリフを言うのに慣れていない。完全に混乱し、皆さんの高い質を保つのに付いていくのに精いっぱい。
蘇る芝居の思い出は、迷い、成功、そして死
以前に出たお芝居の記憶が蘇りました。2016年でした。
その年は2月半ばから客演での俳優のお仕事の稽古に入り、4月に公演を終え、5月にも友人主催の「十二人の怒れる男」の公演の稽古に入り、としているうちに俳優の仕事が忙しくなり(その間に出演した映画の公開もありました)、といった具合に俳優としての仕事が増す中、毎度稽古場で演出家さんの要望に応えられずに絞られ、という毎日でした。そして本業の落語でも難しい噺に取り組み、昼は演劇、夜中に「黄金餅」や他の噺を寝ずに稽古をするという日々を送っていました。
そんな時に6月公演の稽古中に主催をしていた友人の死を迎え、僕は彼を弔うための作品「十二人の粋な江戸っ子」という江戸を舞台にした演劇の準備を始めて、精神的にも肉体的にも限界を迎えました。それでも役者としてのオファーが来てしまう。状況を説明しても「どうしても」と言っていただき断れない。僕で本当に良いのだろうか。そして本業も真打ちになったばかりで、今後やっていかれるかの正念場。
そして11月。自分の劇団を立ち上げ「十二人」の前段階で落語のお芝居を主宰し終えて、他の劇団の公演に役者として参加している最中に独演会を開催しました。それは文化庁芸術祭参加作品。その年の暮れでした。「十二人」の稽古中に受賞の知らせをいただき、「十二人」は大入り満員で大成功、でしたがその間に父が事故で死にました。
落語と芝居のはざまで生きる
ワークショップが終わった翌日のオンライン公演で人情噺をしました。芝居を経た後の人情噺は成長しているように感じます。16年の受賞もそうでした。周りからザブちゃんの落語変わったねと。今回も僕の身体の組成が変わったかのように人情噺のセリフが出て来ました。
新しいニューヨークでの環境の中、芝居の現場でも揉まれ、僕の中にもう一つ深い皺ができて、登場人物に光と、そして影を感じているのかもしれません。芝居が好きです。落語が好きです。前座の頃から死ぬ気で取り組んでいますが、移住も芝居もその気です。根性はないですが、好きでやる商売、好きこそ物の上手なれで今後も生きていきます。
【次回予告】
次号は、柳家東三楼さんのエッセー第9回をお届けします。
柳家東三楼
(やなぎや・とうざぶろう)
東京都出身。
1999年に三代目・柳家権太楼に入門。
2014年3月に真打昇進、三代目・東三楼を襲名した。
16年に第71回文化庁芸術祭新人賞を受賞。
19年夏よりクイーンズ在住。
演出家、脚本家、俳優、大学教員(東亜大学芸術学部客員准教授)としても活動。
紋は丸に三つのくくり猿。
出囃子は「靭(うつぼ)猿」。
現在、オンラインでの全米公演ツアーを敢行中。
落語の無料オンラインレッスンあり、詳細はウェブサイトへ。
zabu.site
お知らせ
全米落語協会、発足!
日本の落語を、世界の「RAKUGO」へ! 東三楼さんの取り組みがいよいよスタートします。
4月1日より、クラウドファンディングも開始。支援に興味がある人は、メール(us.rakugo@gmail.com)で東三楼さんにご連絡ください。