今年9月にアラ&
テーマ:喜春さんの思い出
共に「ニューヨーク京都倶楽部」に所属する、石田多叡子さんと山崎里香さんが、故・中村喜春(きはる)さんについて語った。
——今回の対談のテーマは、中村喜春さんとのことですが、2人の共通の友人ですか?
山崎 私は1999年にニューヨークに来ましたが、2004年に亡くなった喜春さんと直接の面識はありません。
石田 私は彼女の生前、よくしていただきました。外ではいつでも日本髪を結って、着物をきちっと着ている人だったんですよ。
山崎 ニューヨークで一人で着物を着るって、すごく勇気が要りますよね! 日本人のプライドだったのかな。
私が喜春さんを知ったきっかけは、クイーンズ区ジャクソンハイツの、彼女の自宅の売却をお手伝いしたことです。そこも総和風で、すごかったですよ。広いリビングは全て畳張りで、障子やふすまもあって!
その家に着物や新品の扇子などが、大量に残されていたんです。どう処分しようかと思って、多叡子さんなら着物についてもご存知かと思って相談したら、「喜春さんならよく知ってますよ」と。驚きました。
石田 私たちは元々、東日本大震災の追悼記念式典で出会って、「京都倶楽部」でご一緒しているんですけど、まさか喜春さんと共通のご縁ができるとは。
——石田さんは喜春さんとはどう出会ったのですか?
石田 喜春さんのことは、当地の日本人みんなが知っていました。私がニューヨークに来たばかりのころ、古い着物や帯を加工販売していた男性を手伝っていたんですけど、そこによく喜春さんが来ていました。
当時のニューヨークには日本人もそんなにいなかったし、狭いコミュニティーだったんですよ。行く飲み屋もみんな同じで、そこで情報交換をしていた。誰もが横並びで、「ムラ社会」ができなかったですね。
山崎 良い時代ですねえ。そう思うと、今のニューヨークの日系コミュニティーに、そういう「誰もが知っている人」は、あまりいないかもしれませんね。
——喜春さんとは、どんな人だったのでしょう?
石田 不思議な雰囲気で、でもチャキチャキしている人。頭が良い人だったのだと思います。ニューヨークにいらしたのは1958年ですね。芸者さんで、外国人を接客するために英語を学び、外交官と結婚された。そういう経験を経て、来米されたんです。
日本文化にとても精通している人だったので、「蝶々夫人」を上演するメトロポリタンオペラへ着付けを教えに行ったり、マイアミの大学で、三味線や長唄などを教えたりもしていたそうです。私の主人も、喜春さんから三味線と長唄を、ほぼ強制で習わされていました(笑)。
山崎 強制なんですね(笑)。私は喜春さんが書かれた本を通して、彼女を知りました。そこに書いてあったのですが、喜春さんの著書を読んで感銘を受けた日本の若い子やその親が、喜春さんに会いたいと連絡してきて、その若い子たちを実際にご自宅に住まわせていたそうです。
石田 そうそう。「家に住んでる子が、彼氏ができて妊娠したから、出て行くって言うの。大丈夫かしら」と、喜春さんが心配していたこともありましたよ。
山崎 他には、「今の若い子の日本語は汚い」とも書いてらっしゃる。
石田 私はその話を「(汚くて)すいません」って言いながら聞いていたの(笑)。多芸を極める芸者さんとして、日本文化に誇りを持っていたのでしょうね。
ご自身が受け入れられたからか、アメリカのことは大好きだったみたいですよ。
山崎 ご自宅を担当することになった時は、そんなすごい人だったとは、思わなかったな。
石田 私は一時帰国するたびに、喜春さんから買い物を頼まれたりしていましたが、プライベートな話はそこまで深く知っているわけではなかったので、逆に今、こうして著書を読んで、色々知りました。人の縁ってなんだか不思議ですね。
思い出のたくさん詰まった家でした—山崎
喜春さんのことは、みんなが知っていた —石田
写真左:石田多叡子
1980年、夫の大手ダイヤモンド会社入社に伴い来米。設立したコーポレートアイデンティティ(CI)会社で、10年間開発プロジェクトに携わった後、92年に夫が経営するダイヤモンドの卸売業「EXRoyal」の副社長に就任。ボランティアとして、ニューヨークで開催される多くの日系イベントの企画・運営に携わる。
写真右:山崎里香
古本不動産所属の不動産エージェント。1999年に来米。2004年にFashion Institute of Technologyを卒業。16年にニューヨーク州ブローカーライセンスを取得。約2年で100件以上の賃貸契約の経験を持ち、現在、売買物件にも力を入れている。
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