Page 34 - NY Japion
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美しい邸宅が並ぶプレジデントストリート。19世紀末から20世紀初頭 にかけての建築が多い。思い思いに凝らした意匠は成功者の証かつてはエリアの名前にもなったセントマークスアベニュー。豪邸街と いうよりは、統一感のあるベッドタウンの感があるブルックリンアベニューにある聖グレゴリー・カソリック教会。エリアの不 動産開発が急速に進んだ20世紀初頭、1906年の建立1917197483Friday, January 15, 2016|Vol. 847|34 AREA STORY9830 29 世界中から観光客が集まるニューヨークに は長い発展の歴史とストーリーがある。この 街の変遷を、1カ所にフォーカスし、数回に わたって紹介する「NYいまむかし」。計画道だ。2本の舗道には各々2 列の街路樹が配され、文字 通り「パーク」を思わせる。ぶ様が目に心地よい。かた や、プレジデントストリー トのキングストンアベニュ ー辺りは必見の美邸通り だ。ゴシックやロマネスクの 復刻様式や、クイーン・アン 様式、南部コロニアル様式 からフランク・ロイド・ライ トのタリアセンスタイルま で、実にさまざまな邸宅が 意匠を競い合い、散歩道と しても抜群に楽しい。築が可能となり、不動産開 発は頂点に達する。集合住 宅が増え、富裕層のみなら ず労働者層も引き付け始 めた。まるで彼らの上昇志 向をくすぐるかのようにエ リアの名称も「クラウンハ イ ツ = 冠 山( か ん む り や ま)」に代わる。「烏山」時代 の刑務所や病院は、いつの 間にか姿を消していた。新道の開通で発展する 工期は1870年から んぽつんと建つ程度で、通 4年を要した。ちょうどフ 称「クロウハイツ」。日本語 ランスではジョルジュ・オス で言ったら、さしずめ「烏山 マンがパリの都市改造に躍 先住民も入植者も開墾 の手をこまねいていたブル ックリンの荒地に初めて村 を開いたのは、南部の農園 から命懸けで逃げてきた 元奴隷たちだった。リンカ ーンによる奴隷解放のはる か以前、1830年代のこ とである。それが、今のクラ ウンハイツのコミュニティー の母体となった。(からすやま)」。殺伐として 人が寄り付くエリアではな かった。起になっていた頃だから、 幾分の対抗意識はあったか もしれない。 年にブルッ クリン橋が開通してマンハ 村はできたもののマンハ ッタンからは遠く、交通の 便も悪かったため、 世紀 のこのかいわいは依然とし て「地の果て」だった。隔離 病棟や刑務所などがぽつ高級住宅地となる。 パークウェーから裏通り を入ると、碁盤の目のよう な区画に高さやデザインが そろったブラウンストーン (タウンハウス)が整然と並 次回はハシディックと戦 後の「冠山」の変貌を探索 する。 (中村英雄) ところが 年、新道「イースタンパークウェー」の開通 ッタンとの距離が縮まる をきっかけにがらりと変わ と、医師や弁護士など成功 る。グランド・アーミー・プ 者たちはこぞって大通り周 ラザからラルフアベニュー 辺に豪奢(しゃ)な私邸を建 に至る全長約9キロ(当時) て、 世紀末には同エリアのこの道路は、米国初の「公 園通り」。双方向片側3車 線、全幅 メートルの急行 馬車用大通りを舗道が挟 み、さらにその外側には配 達馬車用の側道が走るとい う実に〝寛大〞なデザインはニューヨークでも有数の 1920年には、現在の 地下鉄4ラインがパークウ ェーの下に開通。時代はも はや電車。電車時代の到来 で輸送量が飛躍的に増え た。同様に電動のエレベー ター技術の登場で高層建 設計者はセントラルパー クやプロスペクトパークの デザインを手掛けたフレデ リック・ロー・オルムステッ ド ド。当時、全米の公園や大 学キャンパスを片っ端から 設計しまくり、飛ぶ鳥を落 とす勢いだった。英国式の 造園技法をベースに、曲線 フォルムを上手に使って自 然に溶け込むような景観 を作るのがオルムステッド の十八番である。激動の時代に新たな住民 年代後半、労働者層の 流入と 年の大恐慌以来 長引く不景気の影響もあっ て、富裕層は次第にこの地 を離れる。一方で、すっかり 庶民の街と化したクラウン ハイツにどっと移住してき たのが、ヨーロッパ各地での 差別や政変を逃れてきた 難民。中でもハシディックと 呼ばれる戒律に厳格なユダ ヤ教の一派ルバヴィッチ派 の信徒たちが多かった。ナ チスドイツの非道なユダヤ 人迫害によってポーランド や東欧諸国を追われた彼 らは、クラウンハイツに、安 住の場所を見い出し、信仰 の総本山を築いた。以来、現 在も住民構成の大きな部 分を占める。男性は一様に ひげ面、黒装束、黒帽子で 女性はカツラにモノトーン なロングスカートというい でたちは今でも目を引く。美邸が伝える黄金時代 年に、アトランティック アベニューと平行して走る フルトンストリート上に高 架鉄道(蒸気機関車)が開 通すると、パークウェーの 北側の人気が急上昇。中で もセントマークスアベニュ ー沿いに、ぜいを尽くした 住宅がひしめいたため、エ リアは一時「セントマーク ス」と呼ばれた。まだ鉄道 の主役は蒸気機関車だった が、この時点で住民の人種 構成はほとんどが白人に。 黒人はお屋敷付きの使用 人やメードたちだけになっ てしまった。

