2018/02/09発行 ジャピオン953号掲載記事

この街に住みたい

世界中から人が集まるニューヨークには長い発展の歴史と物語がある。戦後、急速に衰退を始めたパークスロープ。住民構成も変わり、治安も悪化した街に厄災が降り掛かった。

パークスロープ❻

 第二次世界大戦が終って平和が回復すると米国の生活様式がガラリと変わる。インターステート高速道が全米に張り巡らされ、マイカーを主要移動手段とする風潮が浸透。家屋も緑の多い郊外の一戸建てが理想とされパークスロープのような低層集合住宅に肩寄せ合って暮らすスタイルは時代遅れとなる。白人富裕層を筆頭に住民が転居を始めた。

急速な荒廃

 空き家が増え商店街も歯抜けになると、貧しい移民層が流入する。パークスロープの場合は、プエルトリコ人だ。米国政府の工場労働者募集に応じて、年間3万人が移住した。ところが50年代には産業構造に変化が生じ、ニューヨークの製造業は工場を、税金優遇があり、運輸インフラが好条件の郊外や他州に次々に移した。

 結果、移民たちの仕事がなくなり、失業者となった彼らはストリートにあふれる。不満を抱えた彼らと古参の労働者層が街のあちこちで小競り合いを繰り広げる。その様子はミュージカル「ウェストサイド物語」が描いた通りだ。パークスロープでは、5アベニューの北部(今は高級ブティック街)に人種間対立や憎悪犯罪が渦巻いた。そんな頃、悲劇は起きた。

住宅地に旅客機が!

 1960年12月16日。午前10時21分。スタテン島の1500メートル上空でユナイテッド航空のDC8ジェット旅客機とTWA航空のプロペラ旅客機が空中衝突した。TWA機は爆発しスタテン島に墜落。一方のユナイテッド機は、エンジンと翼の一部を失ったものの、必死に体勢を取り戻して飛行を続行。機長はプロスペクトパークの大芝生に不時着を試みようとしたようだ。パークスロープ上空に進入した同機は超低空で小学校に向かってきた。教師の一人は「パイロットの顔が見えた」と証言している。公園まであと数ブロックというところで翼が建物に接触しジェット機は大破。7アベニューとスターリングプレースの角辺り一帯を火の海に包んだ。乗員乗客83人は即死。巻き込まれた住民6人も死亡した。

 墜落時にたった一人生存者がいた。スティーブン・ボルツ君(11)。ニューヨークで家族とクリスマスを過ごすためにイリノイから単身移動中だった。奇跡的に雪上に放り出され、全身やけどを負うも、意識はまだあった。搬送先のブルックリン・メソジスト病院では総動員で寝ずの看護に当たったが、その甲斐虚しく少年は翌日、息を引き取った。この話は世界中で涙を誘い、巨額の見舞金が集まる。それを原資に同院の小児集中治療室が創設された。少年のポケットに残っていた10セント玉と5セント玉は、全犠牲者135人の慰霊碑とともに今も同病院内の教会堂に祀られている。(中村英雄)

1960年ユナイテッド機墜落現場。住宅数棟が倒壊し、葬儀店、クリーニング店、デリが焼失した
ボルツ少年を手当てしたブルックリン・メソジスト病院。1881年創立以来パークスロープ住民の健康を守る
同病院内の教会堂に祀られている慰霊碑。8枚の硬貨は実際にボルツ少年がポケットに所持していたもの

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