2017/04/21発行 ジャピオン912号掲載記事

この街に住みたい

 世界中から人が集まるニューヨークには長い発展の歴史と物語がある。今回は、ジャクソンハイツの住宅インフラと独特な住宅文化の歴史をさかのぼってみよう。

ジャクソンハイツ❼

 1900年代初頭、ガーデン・アパートメント構想が形を成していった頃のジャクソンハイツは今よりずっと閉鎖的な場所だった。開発母体クイーンズボロ・コーポレーションは、入居者を白人、それもアングロサクソン・プロテスタントに限定。それ以外の白人(ユダヤ人、イタリア人他)は排除し、同じキリスト教でもカトリックは受け入れず、黒人やその他の人種は除外した。

 第一次世界大戦(1914~18年)前後のことだ。終結後、米政府が一定の国からの移民を拒否する政策を打ち出し、それに便乗したものだという(歴史書「イメージズ・オブ・アメリカ、ジャクソンハイツ」)。

 思えばちょうど100年たった今、米政府によって同じような政策が繰り返されている。さすがに今のニューヨークは全身全霊で抵抗しているが、当時はまだ住民による「移民の町」の意識はなかった。

コープ発祥の地

 1920年代初頭、ジャクソンハイツに建てられたガーデン・アパートメント群が賃貸からコーポラティブ(共同所有)に移行されていく。歴史書「ジャクソンハイツ~ガーデン・イン・ザ・シティー」(ダニエル・カラザス著)によると、ジャクソンハイツこそが全米のコープ発祥の地なのだ。

 住民でビルを共同所有するという発想の下に、入居者を厳しい審査にかける。物件にもよるが、今でも根強く残っているニューヨーク市独特の住宅文化といっていい。人口も、1910年には3800人だったものが、30年には4万4500人に増えていた。とはいえ、30年を前後しての世界恐慌までは、こうしたアパート群の入居率は半分に満たなかったという。物件が高過ぎて払える人がいなかったのだ。恐慌後は値段も下がり、さらにアパートも増築されていった。

 少し話が前後するが、ガーデン・アパートメント構想が推し進められた背景には、ニューヨーク市による二つの法改正がある。1901年の「Tenement Act(安アパート改革令)」と、16年の「Zoning Resolution(区画法案)」だ。最初の令で、当時主流の劣悪な賃貸アパートを改築、もっと文化的・人道的な住環境を促進する流れになった。それまでのアパートは、トイレは各階共同、台所にバスタブがあるのが当たり前の時代。そして二つ目の区画法案で、工場・商業地帯と住居地帯が明確に区別され、ジャクソンハイツが住居専用エリアとして守られる法的条件が確立した。

 40年代になると、ブロードウェー劇場街からゲイコミュニティーがジャクソンハイツに移住してくる。ユダヤ人が続き、黒人は68年に初めてジャクソンハイツへの入居を許される。70年代に入るとヒスパニック系移民が増え、人口形成が動き始めるが、それは来週語るとしよう。(佐々木香奈)

1900年代初頭に建てられたガーデン・アパートメント群の一つ。住民しかアクセスできない中庭が特徴
ルーズベルトアベニュー沿いのラテン系の店舗群。1970年代からヒスパニック系移民が住み始める

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