2017/03/24発行 ジャピオン908号掲載記事

この街に住みたい

 世界中から人が集まるニューヨークには長い発展の歴史と物語がある。今回は、20世紀初頭の、ジャクソンハイツ初期の不動産ブーム時代を振り返る。

ジャクソンハイツ❹

 1900年クイーンズボロブリッジ建設計画が決定すると、ジャクソンハイツを含むクイーンズ北部地区での不動産ブームに火がついた。橋が完成すればマンハッタンと陸続きになり、クイーンズの不動産価値が一気に上がるからだ。

 さらに、交通インフラ充実がロングアイランドシティー(LIC)に各種の製造工場を誘致。労働者向けに、近隣地区にベッドタウンを建設するニーズが浮上したのも、不動産ブームを後押しした。ニュータウン(今のジャクソンハイツ)の農場地帯は、理想的な位置にあった。

20世紀頭の不動産ブーム

 1898年の5区合併によるニューヨーク市誕生から、1909年クイーンズボロブリッジ開通までの約10年間は、クイーンズ北部の土地買収に関する話題が地元を席巻した。当時の地元紙ニュータウン・レジスターなどが毎日のように、農場主らが土地開発業者に土地を売却するニュースを掲載した。

 歴史書「ジャクソンハイツ~ガーデン・イン・ザ・シティー」(ダニエル・カラザス著)によると、急激に魅力を増したニュータウンに目をつけた土地開発業者は、一人や二人ではなかった。フォレストヒルズを開発したコード・メイヤーとラッセル・セージ財団なども名乗りを上げている。が、ジャクソンハイツの生みの親は、ブルックリン出身の若き実業家エドワード・アーチボールド・マクデューガルを置いて他にない。

 1906年、32歳の若さで、ビジネスパートナーだったジョン・パリスと共にパリス=マクデューガル社を創設し、クイーンズ各地の土地買収を始めた。

 ニュータウン開発に着手したのは1909年。パリスはすでに事業から手を引き、マクデューガルが単独でその年の8月12日、クイーンズボロ・コーポレーションを創設。近隣農場の買収を開始した。この時点でのジャクソンハイツは、今より狭いエリアを指していた。東西を70〜92ストリート、南北はルーズベルトアベニューとノーザンブルバードの間だ。その中心部が、後にジャクソンハイツ歴史保護地区として指定されることになる。

 総支配人マクデューガルと共にこのコーポレーションを運営し、ジャクソンハイツ開発に携わったのは、社長に就任したウィリアム・ワイコフだ。地元で二つの銀行を経営するやり手だった。ワイコフはその嗅覚で、ジャクソンハイツの未来をほぼ正確に予測している。

 「ベルモントトンネル(42ストリートからイーストリバーの下に作られたトンネル)がそのうち開通し、セカンドアベニューEL(当時マンハッタンを走っていた鉄橋列車)はクイーンズボロブリッジ経由でジャクソンハイツ、フラッシングまで延びるだろう(今の7番線)」と。(佐々木香奈)

42ストリートからイーストリバーのトンネルをくぐり、列車(今の7番線)が走ることをワイコフが予測
ルーズベルトアベニュー沿いを走る地下鉄7番線の鉄橋。今では老朽化が著しい

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