2016/07/08発行 ジャピオン872号掲載記事

この街に住みたい

インウッド散策❽

 1907年に地下鉄1ラインが215ストリートまで開通したおかげで急速にインウッドの宅地造成が進む。19世紀の終わりに「豪農」ダイクマン家が4分割切り売りした畑のあとには6階建ての集合住宅がまたたく間に建ち並んでいった。新住民はアイルランド、ドイツ、イタリアなどヨーロッパ各国からの移民たち。東欧の苦難から逃げてきたユダヤ人も多かった。ブロードウェー、207ストリート、ダイクマンストリートなどはにぎやかな商店街となった。

 32年に地下鉄Aラインが開通すると、それまで富豪の邸宅しかなかったブロードウェー西側の丘の上にもアパート群が出現。当時流行したアールデコの建築は、今でも街並に爽快な統一感を残している。

 「実は、その頃日本人も住んでいたんです」と驚愕(きょうがく)の事実を話すのはアマチュア歴史家のコール・トンプソンさんだ。

なぜそこに日本人?

 インウッドの不動産会社に勤務しながら趣味で地域の歴史を研究紹介するコールさんのブログ記事によると、1917年頃、ミノスケ・ヤマグチ博士に率いられた35家族がこのエリアに居住。ヤマグチは、熱心なクリスチャンで当時日米両国で盛り上がった「禁酒運動」の活動家。日本の資料にはその名がないが、英文の新聞記事や資料を読むと、1897年に渡米。1920年にはワシントンDCでの全米禁酒運動議会に参加し、英語で立派なスピーチを残している。前記ブログではインウッドで家庭菜園を耕す日本人たちの写真も紹介されている。「ところが第二次大戦の開戦とともに彼らはこつ然と姿を消すのです」とコールさん。強制収容所に送られたのか? 帰国したのか? いずれにしろ迫害を受けたことは想像に難くない。

盛り上がるラテン文化

 戦後は白人労働者層に代わってプエルトリコやドミニカからの移民がこのエリアの主役になった。繁華街の207ストリートを歩いてみる。食料品店の店先には中南米の果物が山と積まれ、理髪店や美容院では昼間から常連客がスペイン語で激論している。日が暮れるとあちこちのナイトクラブから鋭いビートでスパニッシュのラップが漏れ聞こえてくる。禁酒運動の日本人が見たら卒倒するほどの異様な活気だ。

 ちなみに、ブロードウェーの超人気ミュージカル「ハミルトン」の作者兼主演のリン・マニュエル=ミランダは、インウッド出身。ラップでアメリカ史を語り直すというリンの偉業に、オバマ大統領をはじめ全米が大喝采を送り、同作は今年度のトニー賞最優秀作品賞をはじめ11部門を総なめした。多層を成すインウッドの長い歴史が育んだ最新の才能といえるかもしれない。(中村英雄)

不動産会社社員のコール・トンプソンさん。自身の地元史ブログ(www.MyInwood.net)はプロ顔負けの内容
1926年当時、207ストリートとヴァーミリーストリートの角にあったユダヤ系デリ
2016年の同じ場所。今はラテン系食料品店に。街並や活気は変わらず住民だけが入れ替わった

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