2016/06/03発行 ジャピオン867号掲載記事

この街に住みたい

インウッド散策❸

 前回、1626年にインウッドで交わされた契約により、マンハッタン島の所有権が開拓者の手に渡ったことを紹介した。インウッドから少し話題がそれるが、今後の時代の流れを見る上でも、今回はここから始まった、ビーバー取引の狂騒を見ていきたい。猟の現場を担ったのは、自然環境を知り尽くす先住民レナペ族の人たちだ。彼らはマンハッタン島に生息するビーバーをあっという間にとり尽くし、インウッドからハドソン川を越え、現在のニュージャージーまで進出。そこには別の部族が暮らしていたから、当然争いが生じ、銃器を持つ開拓者たちの加勢で、ひどい戦争に発展した。石油資源をめぐって欧米が中近東に火をつけた今日の戦争と全く変わらぬ構図だ。

ビーバーが回した世界経済

 17~19世紀、石油並みに経済の原動力となっていたビーバー。その交易の歴史は、古代ギリシャ・ローマ時代までさかのぼる。大昔は、中国やロシアからヨーロッパ圏に輸入されていた。ビーバーは毛皮(ペルト)、なめし革、毛の部分(フェルト)がそれぞれ服飾素材になる便利な動物で、中でも、滑らかなフェルトは帽子や靴の材料として珍重された。

 当時、帽子は今では考えられないほど重要なアイテムで、宗教界、経済界、軍隊、法曹界、大学などで男性の地位、階級の格付けを代弁していた。帽子を見ればその人がどれくらい偉いか一目で分かるものであった。主要生産地はイギリスとフランス。紳士の山高帽や近衛兵の帽子、皇帝ナポレオンの帽子など、いずれもビーバーのフェルトを使ったものが「高級」と目されていた。北米産のビーバーを使った英仏製の帽子は、スペイン、ポルトガル、イタリア、ドイツなどに輸出された他、世界中の植民地に普及した。ビーバーが世界を回り、世界経済を回していた時代だったのだ。

 マンハッタン島のビーバー絶滅後も、北米のビーバー狩りは歯止めが効かなかった。1784年、アメリカ独立後、この業界に参入して大成功したのが、ドイツ移民のジョン・ジェイコブ・アスター。アスターはニューヨークから五大湖周辺にテリトリーを伸ばし、不動の毛皮帝国を作り上げた。その毛皮を中国に売って交易ルートを築きさらに資産を増やし、1804年からは、ニューヨーク市の不動産(特にマンハッタン北部)を買いあさり48年に亡くなった時には2000万ドル(2007年の換算で1150億ドル)の資産を残した。

 アスターがニューヨークの地を踏んだ1784年頃に建てられた家屋が、今もインウッドに残っている。築232年のダイクマンハウス。次回はこのマンハッタン最古のファームハウスを訪ね、18〜19世紀のインウッドを渉猟してみる。(中村英雄)

ニューヨークの繁栄は、数千万匹のビーバーの犠牲の上にある。ミッドタウンのビルで見つけたビーバー像
地下鉄6ライン「アスター・プレース」駅構内にもビーバーが。アスター家の守護神?リメンバー・ビーバー!
インウッドに残るマンハッタン最古の家屋「ダイクマンハウス」(1874年頃の建築)は、一般公開している

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