2016/05/27発行 ジャピオン866号掲載記事

この街に住みたい

インウッド散策❷

 マンハッタン最後の原生林「インウッド・ヒル・パーク」の山道を入ると、4叉路の中央に意味ありげな石が置かれている。銘板には、「ここにかつてあったユリノキの大木の下で有名なマンハッタン売買の取引が行われたらしい」とある。

 氷河で干上がったベーリング海峡を、日本人と同じ祖先のモンゴロイドが歩いて北米に渡ったのが、推定およそ1万3000年前。その子孫が東海岸に到達し、この近辺でレナペ族となったのが1万1000年前。親族単位の小さな集団で暮らしていた彼らは、森で木の実やハーブ類を採集し、川で魚介類をとり、冬になると獣の狩りをする生活を貫いていた。特にハドソン川は動物相が豊かで、魚や貝はもとよりビーバーやカワウソ、イルカまで多数生息する環境だった。トウモロコシなどのささやかな栽培以外には、森の開墾や農作物の管理技術を持たないレナペ族は、資源も土地も争奪、専有するのではなくお互いに「共有(シェア)」するものと考える。それは仲間だけでなく他部族や外国人に対しても同じだった。

帽子が破壊した「共有」

 なので、1609年にやって来た英国人ヘンリー・ハドソンの探検隊に対しても終始、友好的だった。だが、西洋人側の関心は全く違っていた。母国に戻ったハドソンがまず報告したのは、新大陸の豊かな動植物相。わけても、毛皮資源ビーバーの多さだった。当時、ビーバーの毛皮は紳士用帽子(トップハット)の素材としてもてはやされていた。欧州でビーバーをとり尽くした彼らは新大陸ビーバーに商機を見い出し、先住民との交易が始まる。欧州製の刃物、宝飾品、食器、などと毛皮との物々交換である。見たことのない物質文化に幻惑されたレナペの人々は、ビーバー狩りに奔走。素朴な狩猟採集生活は一気に瓦解する。商取引の加熱は、今までなかった部族間の競争や軋轢を生み、ついには戦争も勃発した。

 そんな状況下、オランダ人総督ピーター・ミニュイットは、1626年、この場所において、マンハッタン島をわずか60ギルダー(24ドル)相当の品々との交換で手に入れた。とはいえ、これも西洋人が勝手にそう解釈しているだけの話で、先住民側としては、マンハッタンの「共有」を許可しただけだった。

 同取引後、西洋人によるマンハッタンの入植は公然と進められ、開発に反対する多くの先住民たちは容赦なく殺戮された。ビーバーの乱獲も止まらず、19世紀前半には年間数10万頭が殺され絶滅寸前に至る。

 1938年、ユリノキの古木が倒れ、マンハッタン売買の証人は消えた。いまや誰1人、この不平等で強引な契約を気にかける者はいない。ちなみに、現在のマンハッタン全体の不動産価値は、3兆ドルを超えているらしい。(中村英雄)

海水と真水が交錯するハドソン川は、17世紀までは動物相が豊かだった。現在は、環境汚染で水泳もできない
1626年にマンハッタンの売買取引が行われたとされる大木の跡
インウッド・ヒル・パークにあるマンハッタン最後の原生林は、ハイキングに好適

バックナンバー

NYジャピオン 1分動画