2016/04/08発行 ジャピオン859号掲載記事

この街に住みたい

マーレーヒル❶

 34ストリートとレキシントンアベニューの北東角にあるオレンジ色のビル。世界中でベストセラーになったダン・ブラウンの小説「ダ・ヴィンチ・コード」は、ここから始まる。このビルが、小説の謎解きのカギとなるオプス・デイのアメリカ総本山なのだ。オプス・デイとは、ローマ・カトリック教会の組織の一つだが、いろいろ謎が多い団体。34ストリートとレキシントンのここも、あまり人の出入りが見られない。

 この建物がある土地は、1999年まではフェンスで囲まれた空き地で、いつも薄暗く、丈高に生える雑草がいかにも廃れた様相を呈していた。当時のマーレーヒルは、マンハッタンの他のエリアと比べると家賃も比較的安く、開発が遅れていた。古くから住む年配の住民が多く、活気はなく、ひっそりしたものだった。

 謎の宗教団体ではあるが、汚い空き地にこのビルが建ったのは、マーレーヒルを活気づけた。偶然かもしれないが、そのころから若者が増え、レストランやバーも増え、新築住居ビルが次々に立ち始めたのだ。

 このように、たかだかこの20年を振り返っても、大きく変貌を遂げたこのエリア。アーパーウェストやビレッジなどと比べ、地味で目立たないが、リッチな歴史が、さりげなく街のあちこちに埋もれている。

18世紀半ばから始まる
マーレーヒル歴史地区

 マーレーヒルとは厳密にいうとどこからどこまでのエリアなのか。1999年に「マンハッタン6区」委員会が定めた区画によると、南北は34と40ストリート、東西は3アベニューとマディソンアベニューに囲まれたエリアとなる。一方で、郵便区画では、南北は27と40ストリート、東西はイーストリバーから5アベニューと、かなり広くなる。

 その中に位置する、レキシントンアベニューとパークアベニューの間の、35から38ストリートの一画が「マーレーヒル歴史地区」だ。マーレーヒルの歴史は、18世紀半ば、この歴史地区から始まる。

 「エクスプロアリング・マンハッタンズ・マーレーヒル」(ヒストリー・プレス刊)によると、マーレーヒルの名前は18世紀に、今の歴史地区がある場所で農場を経営し、豪邸を建て、海外貿易商として財を成したマーレー一家からきている。「ヒル」は、当時土地が盛り上がった高台だったから。

アメリカ独立に一役?
マーレーヒルの名家

 マーレー一家は、アイルランド出身のクエーカー(キリスト友会)教徒だった。1732年に移民としてペンシルベニア州に住み着き、53年にニューヨークに移ってきた。地名に名を残すまでになったのは、単にこの地で財を成したからではない。独立戦争時、ニューヨークでアメリカ軍を救ったといわれる、メアリー・リンドレー・マーレーの実績によるところが大きい。

 独立戦争は1775年に始まり、その後83年まで続く、イギリスと、アメリカ東部のイギリス領13植民地との間で繰り広げられた戦争だ。76年イギリス軍のウィリアム・ハウ将軍は、ボストン撤退後、ニューヨークの占領に焦点を絞っていた。その年の9月15日、ハウ将軍は軍を率いて今のマンハッタン・キプスベイ(マーレーヒルに隣接するエリア)に上陸し、一気にニューヨークを支配。

 語り継がれるところによると、この日マーレー邸の近くを歩いていたハウ将軍とイギリス軍幹部を、メアリーが自宅に招き入れ、茶菓でもてなしたという。それが、マンハッタンに残されたアメリカ軍に脱出する時間を与え、本来ならイギリス軍に捕まってしまっていたはずの兵士約4000人の命を救ったとされる。メアリーが時間稼ぎをしている間、イズラエル・パットナム将軍率いるアメリカ軍は、司令官ジョージ・ワシントン(のちの初代大統領)率いる軍と合流し、翌日ハーレムでの戦いで陣地を確保することができたという。

 あっぱれと言わざるを得ないが、豪邸に住む淑女ならではの芸当。このときのメアリーの機転が、アメリカの独立達成の一端を担ったともいわれ、功績を称え、当時この豪邸が立っていた場所(37ストリートとパークアベニューの中央分離帯南側)に、1903年に記念の石碑が、26年には銅板碑が設置された。

 94年に銅板碑が新調され、今も同じ場所に、ツタの葉やチューリップに囲まれて埋まっている。わざわざこの銅板碑をのぞき込む現代人はいないが、次にこの辺りを歩いたら、ぜひこの碑を見つけてほしい。(佐々木香奈)

パークアベニュー37ストリート周辺が、「マーレーヒル・ヒストリック・ディストリクト」の中心
メアリー・リンドレー・マーレーの独立戦争時の機転をたたえた銅板碑(at 37th St. & Park Ave.)
34ストリートとレキシントンアベニューの北東の角にあるオプス・デイのアメリカ総本山ビル

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