2016/02/05発行 ジャピオン850号掲載記事

この街に住みたい

サンセットパーク❶

 ブルックリン在住の作家ポール・オースターは日本でも人気が高いが、2010年に発表した小説「サンセットパーク」の中に含蓄のある一文を見つけた。
 
 「傷つくことは人生の大事な一部だ。男は何がしかの傷を負わない限り、一人前になれない」
 
 傷痕がうずく人間たちがブルックリンのシェアハウスに身を寄せ、過去と向き合い、やがて再生への糸口を見つけるという静かな物語で、時代設定はリーマンショック以降、舞台はサンセットパークだ。すこぶる評判が良く、サンセットパークの地名は一躍世界に広まった。一体、この街の何が作家のインスピレーションをかき立てたのだろう。言っちゃ悪いが、サンセットパークなんてつい最近まではガラの悪い街だったのに…。そんなことを考えながら地下鉄Rラインの45ストリート駅で降りた。

眺めの良い公園

 木枯らしの往復ビンタに両頬を打たれるまま、2ブロックほど歩くとエリアの名前の由来であるサンセットパークに到達する。約1万5000年前に融けた氷河が形成した高台の上にある市営公園だ。斜面を上り切ると、大絶景。西を見ればニューヨーク湾、北を向けば金融街のビル群が大パノラマで眺望できる。目を凝らすと「自由の女神」、そしてニュージャージーの丘陵まで見える。

 この公園の裾野に広がるエリアを総称してサンセットパーク。範囲の定義には諸説あるが、東西は9アベニューからニューヨーク湾岸まで、南北は65ストリートから15ストリートまでと思えば大体間違いない。住宅地と工場地帯が併存するユニークな環境に約12万人が暮らしている。街歩きを始める前に、市営公園の沿革を知っておこう。

 公園の建設が始まったのは1891年。カーネギーホールが開設され、エジソンがラジオの特許を取得し、東京に帝国ホテルがオープンした年である。1905年に現在のサイズに拡張されて公園が完成。当初は人工池や6ホールのミニゴルフコース、そして回転木馬が売り物だったらしい。いずれも35年の大改装で撤去されている。

 改装は世界大恐慌(29年)で街にあふれ出た失業者の救済を目的とする公共事業(WPA)の一環で、36年には市営の「サンセットプール」が出来上がった。設計者はアイマール・エンベリー2世。アールデコ・スタイルにのっとり、ひし形模様を配したモダンなれんが建築は、いまも健在。建築家エンベリー2世は、本コラムでも再三紹介している「都市計画の王様」ニューヨーク土木局局長ロバート・モーゼスの右腕で、2人は同時期に市内5カ所で市営プールの設計を手掛けている。サンセットプールはその代表格。最新のデザインと設備で大層人気を集め、「夏は市営プール」という娯楽の新しい常識を作った。クーラーのない時代、電気冷蔵庫も普及していない80年前の話である。

 ちなみに、このエリアが公園にちなんで名前を冠するのは戦後、60年代以降で、それまではサウスブルックリンと呼ばれた。

死者が先駆けた土地開発

 時代を思いっきり巻き戻してみよう。このかいわいにもともと住んでいたのは、ネーティブアメリカンのレナペ族の人たち。狩猟採集と焼き畑農業をなりわいに細々と暮らしていたが、1600年ごろにはオランダ人入植者相手に、トウモロコシやカキ、シカ類の肉など地元産品の交易をしていた。それで先住民が潤ったわけではなく、むしろ得したのはオランダ側。船の便がよい海沿いの立地と肥沃(ひよく)な土壌に助けられ、みるみるうちに開拓。黒人奴隷を労働力に使い、植民地ニューネーデルランドの農業生産に貢献した。1664年に宗主国がイギリスに代わるも、大勢に変化はなく、19世紀に至るまで辺りはずっと農村地帯だった。

 ところが、1825年の定期馬車路線開通をきっかけに都市化の波が押し寄せる。34年、独立した行政体ブルックリン市が誕生。宅地開発が本格的に始まるが、面白いことに、まず真っ先に広大な墓地ができた。38年開園のグリーンウッド墓地である。死者を、教会の付属墓地ではなく公共の場所に埋葬し、そこを市民の憩いの場にするという発想が当時もてはやされ、マンハッタンの富裕層たちがこぞってここを永遠のすみかに選んだのだ。つまり、生者の移住よりも死者の移住が先、という皮肉。次回は、憧れ(?)の公園墓地を歩いてみる。(中村英雄)

サンセットパークは、公園の名称にちなんで名づけられたエリア。南北は65から15ストリート、東西は9アベニューからニューヨーク湾岸まで
サンセットパークは、ニューヨークで最も眺めの良い公園の一つ。特に日没は、その名に恥じぬ美しさ
サンセットプールは、1936年オープン。建築家のエンベリー2世はセントラルパーク動物園の設計も手掛けた

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