2016/01/29発行 ジャピオン849号掲載記事

この街に住みたい

クラウンハイツ❹

今から25年前、1991年の8月19日。真夏の熱気が辺り一帯にたち込める夜8時20分。ユティカアベニューとプレジデントストリートの交差点、クラウンハイツのど真ん中で事故は起きた。

手当てを拒んだ救急隊

 ユダヤ教超正統派ルバヴィッチの最高指導者(当時)メナシェル・メンデル・シュニアソン師が車で移動中、隊列を組む護衛車が突然、猛スピードで暴走。舗道にいたギャヴィン君とアンジェラちゃん(ともに7歳)をはねたのである。

 目抜き通りだけに、夜8時過ぎとはいえ周囲には250人以上の目撃者がおり、その多くが黒人。事故と同時に運転者ヨセフ・リフシュ(22)を車から引きずり下ろし袋だたきにしようとした。事故から3分後、ルバヴィッチ教徒専門の救急隊が現場に到着したが、子供たちの救出を差し置いて、まず運転手の身を守りその場から連れ去った。「異教徒は手当てできない」という宗教上の理由もあったのだろうが、これが、黒人たちの怒りの炎に油を注ぐ。結局、後続の市営救急隊が子供たちの手当てを施し、アンジェラちゃんは一命を取り留めたが、ギャヴィン君は搬送先で死亡した。

 事故を発端にクラウンハイツ中が騒然となる。同日午後11時の段階で、黒人の群衆は怒りの矛先をキングストンアベニューとイースタンパークウェーの角にあるルバヴィッチの総本山に向け、抗議デモを開始。石や空き瓶を投げ始める。そして深夜過ぎ、オーストラリアのルバヴィッチ留学生が黒人グループに惨殺されるに至り事態は暴力化する。非居住民まで加わった暴動は三日三晩続き、NYPDは警官1800人以上を動員。無法地帯の「火消し」に当たった。ディンキンズ市長(当時。ニューヨーク初の黒人市長)も現場入りし、住民に呼び掛けるが効果ゼロ。かえって事態を収束できない無能ぶりを非難された。

暴動への道のり

 3日間で負傷者計190人。破壊された車両27台。襲われた商店7軒。窃盗225件。逮捕者129人。こんな大暴動に至るまでには、いくつかの段階があった。まず、1965年の移民法改正に伴いカリブ海諸国からの黒人移民が急増。その多くがクラウンハイツに集中した。事故犠牲者もガイアナ共和国からの移民だ。同エリアの白人は郊外へ流出、70年には人口の27%に縮小してしまった。その中で、ルバヴィッチの人々だけが、総本山を構えるこの地を簡単には捨てなかった。「あまりにも文化が違い過ぎるので、かえって宗教活動に没頭できる」というのが理由だとされている。

 とはいえ、周囲と積極的に交流しないルバヴィッチたちには、周辺の不動産を買いあさるなど近隣住民への思いやりを欠く行動も少なからずあった。黒人とルバヴィッチの関係は、相互不干渉を基本にしながらも、やがて緊張を生み、小競り合いは頻発。

 79年には黒人がユダヤ人ラビ(聖職者)を殺害。86年には海外から訪米中のルバヴィッチがこのエリアで殺害される。同年には黒人少年が殺され、大きな抗議デモも起こる。88年にもルバヴィッチの男性が殺害され、ユダヤ人学生が黒人グループに襲撃された。

 91年暴動以前の15年間で、すでに10件以上の人種偏見による殺人事件が起きていたのである。

暴力と憎しみを超えて

 そうした憎悪の圧力が沸点に達して爆発したのが「クラウンハイツ暴動」なのだ。ニューヨーク史上最悪級の人種暴動であり、米国史上まれにみるユダヤ人迫害である。当時、ニューヨークの世論はルバヴィッチ擁護派と黒人派にきっぱり分かれた。だが、事件直後に開かれた異例の公開大陪審では、運転手に過失が認められ、告訴は取り下げに。本人は身の安全を案じイスラエルに移住。ニューヨークの人種分断はすんでのところで回避された。

 暴動制圧の不手際で批判の嵐にさらされたディンキンス市長は、それが原因で93年の市長選で大敗を喫した。94年、新市長に就任したルドルフ・ジュリアーニは、治安の強化を市政の重要課題に掲げ、警察力を著しく増強。おかげで犯罪は激減して90年代後半からニューヨークは、奇跡的な経済復興を遂げる。

 現在は人気の居住エリアとして再開発され、不動産業者も一目置くクラウンハイツであるが、不毛な憎しみ合いや殺し合いがあったその歴史を、僕たちは忘れてはならない。(中村英雄)

現在は危険の臭いがみじんもないイースタンパークウェー辺り。25年前、ここを石や空き瓶が飛び交い、大通りは暴徒で埋め尽くされた
かつては庶民の感情の発露として街中に溢れていたグラフィテイもすっかり姿を消した。これは、閉鎖された病院の入り口に書かれたもの
現在の再開発の中心はフランクリン・アベニュー。元工場を改装して昨年完成したビアホールBerg'n(500人収容)は最新の社交場

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