2016/01/22発行 ジャピオン848号掲載記事

この街に住みたい

クラウンハイツ❸

20世紀の初頭、高級邸宅街となっていたこの近辺は、1920年の地下鉄開通を契機に上昇志向のある中産階級の街に様変わり、呼び名も「クラウンハイツ」となった。人口の大半はイタリア系、アイルランド系、東欧系などの白人たち。中でも目立ったのがユダヤ人で、40年には白人人口の42%を占めた。その多くはニューヨークの別のエリアからの移住者だった。

古くて新しいユダヤ人

 そこに新しいユダヤ移民がヨーロッパから合流する。「ハシディック(超正統派)」と呼ばれるユダヤ教徒。中でも特に聖書の教えを厳格に守る「ルバヴィッチ」の人々だ。1775年にロシアで生まれたこの一派は、衣食住から教育、結婚、経済活動、性生活に至るまで全て聖書の戒律に従う。ユダヤ教の原点回帰を呼び掛け、物質主義を否定し、現代社会から隔離された世界に暮らす。同じユダヤ人でも世俗的な人とは交流しない。信仰が人生の全て。全員が聖職者である。

 彼らは、戦前のヨーロッパでは激しい差別の対象となり、真っ先にホロコーストの犠牲者にもなった。ソ連(当時)の共産主義政府からも弾圧を受け、数百万人がシベリアに送られ命を落とした。

 1940年3月、ルバヴィッチの最高指導者ラビの第6世ジョセフ・アイザック・シュニアセン師が、度重なる迫害を逃れてポーランドからクラウンハイツに移り住む。同師は、イースタンパークウェー770番地に信仰の総本山を構え、新天地アメリカで積極的な布教活動を展開する。学校、病院を設立し、信徒の生活を親身に支えた。シュニアセン師は「現代の救世主」に等しい崇拝を受けている。
 戦後、総本山と同師を頼って、ソ連など共産圏から続々とルバヴィッチが押し寄せる。聖書に書かれた避妊禁止に忠実に従う彼らは、子だくさんだ。クラウンハイツのルバヴィッチ人口は一気に膨れ上がった。

逃げる白人

 一方で、50年代に入るとクラウンハイツの人口構成に劇的な変化が起きる。黒人人口の増加である。近隣のベッドフォード・スタイベサント地区などの住宅不足が理由だ。また戦後、市が低所得者用団地を建てたため、治安がみるみる悪化し、昔から住んでいた白人住民がこのエリアを離れ郊外へ引っ越し始めた。折しもモータリゼーション推進の時代。高速道路網が全米に広がり、世の中は完全に「脱鉄道」。お金が貯まると誰もがこぞって郊外に一戸建てを買い、マイカーのある暮らしを享受したがった。

 この現象はものすごいスピードで進み、ついには58年に地元プロ野球チーム「ブルックリン・ドジャーズ」までが、治安悪化を理由の一つに、クラウンハイツの南西の端にあった本拠地「エベッツ・フィールド」を見限って、ロサンゼルスに移ってしまった。大リーグで初の黒人選手ジャッキー・ロビンソン採用で躍進した改革的な球団が、しかも55年には悲願のワールドシリーズ制覇を達成したにもかかわらず、ファンを見捨ててクラウンハイツを出て行ったのである。どれだけ急激に地域が変わったか、想像に難くない。そんな中、白人層の中で、唯一この街に居残ったのがルバヴィッチの人たちなのだ。

ジャズが聞こえた時代

 この地に移り住んだ黒人たちは、これまでにない豊かな文化を持ってきた。あまり知られていないが、クラウンハイツからベッドフォード・スタイベサントにまたがるエリアでは、50年代以降、ハーレムに負けないくらいジャズが隆盛した。ノストランドアベニューにあった「ザ・コンチネンタル」ではマイルス・デイビスも吹いていたし、ピアニストのホレース・シルバーの名曲「クッキン・アット・ザ・コンティネンタル」もこの店が由来だ。マックス・ローチ、デューク・ジョーダン、ランディ・ウェストンらジャズ表現の開拓者たちが、頻繁にこのかいわいで演奏していた。3人とも近所の公立校ボーイズ・ハイスクール出身。当時は海外巡業も少なく、ジャズは奏者も観客も「地元」に支えられていた。この地のジャズ史は、ウィークスヴィル歴史センターで現在開催中の「ブルックリンの失われたジャズ殿堂」展で知ることができる。

 信仰と戒律が第一の超正統派ユダヤ人と、自由奔放・人間解放を理想とする黒人。水と油ほど違う二つの文化の共生は、案の定、緊張を生む。1991年夏、人種間の憎悪がついに沸点に達した。一体何が起こったのか?次回に続く。(中村英雄)

イースタンパークウェー770番地にあるユダヤ教超正統派ルバヴィッチの総本山。一見普通の邸宅だが、世界中から信者がここに集まる
ウィークスヴィル歴史センター。地域の歴史を保存し伝えるミッションの一環として現在、ブルックリンのジャズ史展を開催中
プレジデントストリートに建ち並ぶ豪邸は戦後次々にルバヴィッチが買収。高名なラビ(司祭)の邸宅や宗教施設となった

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