2016/01/08発行 ジャピオン846号掲載記事

この街に住みたい

クラウンハイツ❶

かつては荒々しい山の中

 ニューヨークの地図を広げるとそこら中に「ハイツ」がある。マンハッタンではワシントンハイツ、ハミルトンハイツ、モーニングサイドハイツなど。いずれも独立戦争中の要所だ。

 クイーンズなら南アジア系移民の多いジャクソンハイツ。ブルックリンと言えば、イーストリバー越しの摩天楼絶景で有名なブルックリンハイツ、そして、今シリーズの舞台「クラウンハイツ」である。

 ハイツ(heights)と呼ばれるからには、当然これらのエリアは海抜が高い。このコラムでも何度か書いているように、現在のニューヨーク市一帯は、ヨーロッパ人の入植前は起伏が激しかった。

 1万7000年前、氷河期が終わって氷河が後退した時にできた地形と言われる。マンハッタンの語源となった先住民レナペ族の言葉「マンナハッタ」も「ごつごつした岩山の島」という意味だ。だから、方々にハイツがあっておかしくない。

 クラウンハイツは、北はアトランティックアベニュー、南はエンパイアブルバード、東はラルフアベニュー、西はワシントンアベニューに囲まれた3・2キロ ×1・6キロの四角いエリア。およそ150のブロックに整然と区画整理され、その中央を美しい街路樹が並ぶ幅広の計画道路イースタンパークウェー (1874年開通)が背骨のように貫いている。

近代的な風景の裏を見る

 地下鉄4ラインの終点「ユティカアベニュー/クラウンハイツ」で下車してみよう。駅を出た途端に胸のすくようなパークウェーが目に入る。まるでパリのシャンゼリゼ通りだ。

 実際、大通りの西の端には「凱旋門」すら立っている。だが、どこがハイツだ? 見渡しても急峻な坂があるわけではない。19世紀後半から始まった宅地造成でおびただしい量のダイナマイトを爆破したせいで、新大陸の荒々しい景観は、パリに負けない「近代ヨーロッパ調」に改装されたのだ。僕たちは、一見洗練された都市風景の裏で消されたクラウンハイツの本質を見抜かなくてはいけない。

 そもそもレナペ族が住んでいた時代、このハイツ=山はうっそうとした森に覆われていた。白人が最初にこの地に入ったのは1660年ごろとの記録がある。ピーター・スタイブサント総督の命を受けた東オランダ会社の開拓民だ。「永住は許可するが村落は形成しないこと」の条件で住みついたが、地形上、農耕には不適だったため、長い間「公有林」として放置されていた。記録によると、独立戦争「ロングアイランドの戦い」(1776年)では、英国軍がこの森を苦労しながら行軍し、その結果、ワシントン将軍の大陸軍に勝利したそうだ。

人里離れた森に町を作る

 興味深いのは1830年代以後の現象。アフリカ系アメリカ人がコミュニティを形成するのである。38年、南部ノースカロライナ出身の元黒人奴隷で沖仲仕のジェームズ・ウィークスが土地を購入したのがきっかけだ。場所は、現在のバッファローアベニューとアトランティックアベニューの角辺り。そこを中心に、黒人たちがどんどん移り住んで、1850年代には病院、学校、教会を擁する人口500人超の町に成長した。その名も先駆者ウィークスにちなんでウィークスヴィル。

 南北戦争(65年終結)の結果、黒人奴隷が解放される遥か以前の話である。当時ブルックリンはウィークスのような逃亡奴隷の避難地だったが、彼らのコミュニティーがいち早く自発的に誕生していたのは意外な事実だ。

 今でも同エリアの人口30万人のうち約7割はアフリカ系またはカリブ系の黒人。ちなみにクラウンハイツの名称が使われるのは1916年以降のことで、それ以前はクロウヒルと呼ばれていた。クロウ(crow=カラス)に、黒人に対する蔑称「ジム・クロウ」の意味合いが込められていたのは想像に難くない。

 碁盤の目のようなクラウンハイツの住宅街を歩くと驚くほどたくさんの黒人教会に出くわす。日曜日ともなると街中でゴスペルの歌声が響き合う。

 中でもシュネクタディアベニューにあるメソジスト教会「ベセル・タベルナクル」は創立1847年で最古参だ。解放以前に自立を求めて行動を起こした先人を地域の歌い手たちは忘れない。それが証拠に、彼らは今でもこの町をウィークスヴィルと呼び続けている。(中村英雄)

ベセル・タベルナクル教会。創立168年を誇る由緒ある黒人教会。他にもウィークスヴィル時代に創立した病院や学校は多い
イースタンパークウェーは、中央の車道だけで道幅17メートル6車線。それを挟む二本の舗道には各々二列の街路樹が植えられている

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