2015/12/04発行 ジャピオン842号掲載記事

この街に住みたい

ヘルズキッチン

 1990年代初頭までのマンハッタンには、「危険地区」「行ってはいけない地区」があちこちにあり、ヘルズキッチンはその最たる場所だった。80年代後半、8アベニューと50ストリートに高層住宅「ワールドワイドプラザ」の建設が始まった頃から、やっと「安全」の片りんが見え始めていた。
 それ以来、マンハッタンのあらゆるエリアで「高級化」が急ピッチで進み、かつて「ドラッグディーラーの巣窟」などと言われたヘルズキッチンも、今では新築高級コンドミニアムが林立。レストランが軒を連ね、リッチな若者層が住むトレンディーなエリアに様変わりした。
 それでもその名が示す通り、ヘルズキッチンの歴史は暴動と犯罪なしには語れない。今も少なからず残っている昔からの住人たちは、犯罪街としての濃厚な歴史を、ある意味懐かしく思いながら、今の「高級化」を斜めから見詰めている。

かつては富裕層の別荘地
様相変えた19世紀半ば

 「ヘルズキッチン~ニューヨーク・ウェストサイド暴動の日々」(リチャード・オコーナー著、オールドタウンブックス刊)によると、ヘルズキッチンという異名が付く以前の19世紀初頭、この辺りはのどかな田舎で、後に富裕層の別荘地が並ぶ土地だった。子供たちが裸足で土の上を走り回った時代があったという。それが様変わりしたのは19世紀半ばだ。

 南北戦争(1861〜65年)が近づくとヨーロッパから移民が押し寄せ、同時にマンハッタンの工業化が進む。大挙して押し寄せたのは、アイルランドとドイツ移民だった。アイルランド人は母国の大ききんを逃れ、新天地を求めて50~79年、ドイツ人はそれに先駆け17~53年にかけて、ニューヨークにやってきた。当時、彼らが職を求めて落ち着いたのが今のヘルズキッチンだ。ちなみに、そのころはまだ「ミドル・ウェストサイド」と呼ばれていた。

 マンハッタンの工業化によってこの地域に根付いたのは、食肉処理場とその副産物としての製皮場、鉄道車両基地、倉庫、ガス貯蔵庫など。そして、これらの労働者を住まわせる安手の借家と、彼らがたむろする居酒屋が立ち並んだ。こうした産業による製品は、ハドソン川沿いの波止場から船で運ばれ、陸路では1851年に今の30ストリートと10アベニューにできたハドソン川鉄道が利用された。移民のもっぱらの職場は、ハドソン川沿いの波止場での海運作業だった。

 南北戦争終結と共に移民の数はさらに増え、ミドル・ウェストサイドは白人貧困層でごった返す。当時、市の全人口81万3000人のうち、アイルランド移民が20万3000人、ドイツ移民が17万人というから、その数や圧倒的だ。

 ミドル・ウェストサイドはまさにスラム街だった。1864年、劣悪な住宅環境に住民が抗議行動を起こした際、市の調査員が「ここでは人間より家畜の方がマシな生活ができる」と報告書に書くほどひどかった。

 そして、貧民街に付きものなのがギャング。19世紀半ばに芽を出したギャング抗争は熾烈(しれつ)を極め、20世紀初頭にはヘルズキッチンは「全米で最も危険なエリア」と呼ばれた。20世紀後半までの100余年、ヘルズキッチンの流血のギャング抗争は続く。

クリントンハイツか
ヘルズキッチンか

 ギャング抗争の生々しい歴史を語る前に、エリアそのものをおさらいしておこう。

 南はチェルシー、北はアッパーウェストサイドに挟まれたヘルズキッチン。その境界線を、コミュニティー団体「ヘルズキッチン・ネイバーフッド・アソシエーション」は、東西は8アベニューからハドソン川、南北は30~59ストリートと区切っている。最近はエリアの高級化とともに、「ヘルズキッチン(地獄の台所)」というコワイ名前を変えるため、行政と不動産業界が実らぬ努力を続けている。市はイメージ刷新を図り、「クリントン」とか「クリントンヒル」に改名を試みているのだ。不動産業者などは「クリントンハイツ」「ミッドタウンウェスト」と呼び、血生臭い名前を故意に避けようとしている。

 が、現実には市民の愛着は「ヘルズキッチン」にある。街が高級化されればされるほど、この血生臭い名前とのギャップを楽しみ、一方で高級化に反抗する昔気質も廃らせない。そんなさまざまな思いが、この名前に込められている。

 もちろん、命名の背景には、ギャング抗争の歴史があることは言うまでもない。
(佐々木香奈)

52ストリートとハドソン川の波止場。19世紀半ばから、波止場で海運作業に従事するため、アイルランドとドイツから移民が押し寄せた
1980年代後半から8アベニューと50ストリートに建設が始まったワールドワイドプラザ
19世紀半ば、アイルランド移民が押し寄せたヘルズキッチンには、アイルランド文化が息付く

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