2015/09/25発行 ジャピオン832号掲載記事

この街に住みたい

リトルイタリー❸

「移民の歌」が流れる街角

 19世紀後半、イタリアから渡ってきた移民たちが工夫して創作した新イタリア料理は、彼らの成功と共にリトルイタリーを飛び出し、全米に浸透。アメリカ料理の進歩に貢献した。

 同じようにアメリカ文化に厚みを与えたのが、彼らの持ってきた歌や芝居。今で言うエンタメである。中でも多くのイタリア系移民の故郷、ナポリは、胸を揺さぶるメロディーを高らかに歌い上げる民謡で有名。「サンタ・ルチア」「オー・ソレ・ミオ」など日本でもおなじみの歌曲は、みんな19世紀から20世紀初頭にかけてナポリで生まれた。

 歌とパスタなくしては生きられないナポリ人にとって大都会ニューヨークは、チャンスの街。1870年代の大量渡米とほぼ同時に、リトルイタリー周辺のカフェやレストランでは生演奏がはやる。やがて本格的なイタリアオペラの上演も始まった。電気蓄音機の実用化以前はライブが主流だ。自動ピアノ用のロールやピース譜で新しい流行歌が発売されると、人々は待ってましたとばかり買いに走り、店や家庭で演奏するのが常だった。

歌でつながるナポリと米国

 そんなレコード以前の音楽記録メディアを専門に扱っていた店がグランドストリートのE・ロッシ社。古い写真を見ると、店の棚にはロールや譜面がびっしり並んでいる。1910年にナポリからの移民、エルネスト・ロッシさんが創業した。

 現在は、孫のアーニーさんが、ナポリ歌謡のCDやイタリアゆかりの小物を売っている。「祖父の時代はナポリ訛りで歌う移民の歌手も大勢いた。彼らの楽曲の出版をウチが一手に引き受けていたんだ」と話すアーニーさんは1950年生まれ。家業の影響で幼い頃から音楽に親しんできた。「イタリア系で有名歌手になった人は多いよ。ペリー・コモとかディーン・マーティンとかね。彼らは歌詞の一部によくイタリア語を混ぜていたものだ。フランク・シ
ナトラやトニー・ベネットの時代になると英語一辺倒になったね」

 南イタリアの大衆歌謡がアメリカンポップスに与えた影響は多大で、50年代のロックンロールのボーカルもその一つ。エルビス・プレスリーのレパートリーにはイタリアの歌が多い。「この胸のときめきを」も原曲はイタリア語だ。「私も若い頃はビートルズやロックにのめり込んだが、歳を取るとナポリ歌謡が一番しっくり来るね」と苦笑するアーニーさん。今でも商売の合間にギターで作曲しては、若い歌手に提供するそうで、この日は最新作「ディミ・アモーレ」を弾き語りで披露してくれた。思いきり甘いメロディーに乗せたイタリア語まじりのフレーズ「今夜も愛をささやいて」で胸がきゅんとなる。

カルーソーの第二の故郷

 ニューヨークとゆかりの深いイタリア人歌手と言えばエンリコ・カルーソーである。1873年、ナポリの貧しい家庭に生まれたこのテノール歌手は、弱冠21歳でオペラの才能を開花させイタリアでもそこそこ成功していたが、1903年にメトロポリタン歌劇場の初舞台を踏んで以来、アメリカで人気に火がついた。60以上のオペラ作品と500曲以上の大衆曲をレパートリーにするカルーソーはビクターと専属契約。不世出といわれた美声は、当時はしりだったレコード盤に次々と吹き込まれ(16年間で260回!)、その普及を大いに助け、おかげでカルーソーは世界的な名声を獲得する。結局、18シーズン連続で看板テノールを務め、プッチーニの「西部の娘」の世界初演(10年)でも主役で歌うなど、21年に48歳の若さで亡くなるまでの後半生はほとんどニューヨークを拠点にしていた。

 アメリカとイタリアを太い音楽のパイプでつないだカルーソーが、生前、こよなく愛した店がグランドストリートの洋菓子店、フェラーラ。前述のE・ロッシ社のお隣。ド派手な電飾の大店なので見まがうことはない。1892年、アントニオ・フェラーラが弟と創業。二人は有名なオペラの「タニマチ」で、歌手を招いたり観劇の余韻を楽しむ場所として同店を開けた。

 自家製のパン、ケーキ、ジェラートなど何でもうまいが、お薦めはナポリ名菓「スフォグリアテッラ(海老の尻尾)」。上品なカスタードクリームを、職人技で複雑に折り重ねたクリスピーな皮で包んだ逸品だ。ドラマチックな食感の落差がやみつきになる。カルーソーも故郷の「海老」にさぞかし胸ときめいていたことだろう。
(中村英雄)

マルベリーストリートのレストランでは今でも甘美なナポリ歌謡の実演が聞ける
1920年代のE・ロッシ社。50〜60年代は「ヴァケーション」で有名なコニー・フランシスの楽曲管理も手掛けた
現在のE・ロッシ社。奥の棚にはナポリ歌謡のCDが並ぶ。店主のアーニーさんは興が乗ると自作曲の弾き語りも披露

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