2015/06/12発行 ジャピオン817号掲載記事

この街に住みたい

アストリア❷

ピアノ産業が作った街

 地下鉄М、R線スタインウェイ駅下車0分の同名のストリートでは、個人商店が軒を連ね、昔ながらの風情と活気がある。通りの名前は、アメリカが世界に誇る高級ピアノ製造会社「スタインウェイ&サンズ」に由来する。

 同社は1850年にドイツからニューヨークに渡った家具職人ヘンリー・スタインウェイが、53年に創業。持ち前の正確無比な木工の手仕事に「音響学」の科学理論を合体して開発されたピアノには、鍵盤のアクションから共鳴板に至るまで127もの新案特許技術が使われている。発売と同時に国内外の見本市で賞を総なめし、近代ピアノの基礎を築いた。

 ヘンリーは、5人の息子たち(サンズ)と協力して事業を着々と拡大。70年には、本社工場をアストリアに移し、製材から枠型の鋳造まで全工程を一カ所で行うシステムを作った。本社の周りには従業員のための住宅地を開発。ドイツから呼び寄せた職人たちを住まわせ、ドイツ語学校やドイツ系の教会から大観覧車のある遊園地まであつらえ、一帯はスタインウェイ・ビレッジと呼ばれた。今で言う「企業城下町」のはしり。自動車や半導体ではなく、当時はピアノが最先端産業だったのだ。

今も作られる世界的な名器

 スタインウェイ・ストリート商店街を北進してみよう。BQE高速道を越えアムトラックの高架線をくぐると、突然、低層の小ぎれいな一戸建てが並ぶ住宅地に入る。ここがビレッジだ。どの家にも手入れの行き届いた小さな前庭があって、バラやゼラニウムが咲き誇っている。建物は決して豪奢ではないが、ヒューマンなサイズと統一感がどことなくヨーロッパの街を思わせ、散歩が楽しい。坂道を下って住宅街が切れた先に、お待ちかねスタインウェイの本社が見えてきた。

 年間1200台製造していた最盛期に比べたらかなりダウンサイズしたが、今もここでピアノは作られている。グランドピアノ一台に1年をかけるという丁寧な物作りの精神は19世紀から微塵も変わっていない。屈強な男性職人が大勢でピアノのボディー部分を力一杯曲げる作業などはため息がでるほど美しい。工場見学ツアーもあるのでピアノファンはぜひ申し込むといい。ショールームでは世界のマエストロ10人中9人が愛用する名器の数々を間近で見ることができる。

輝いていたドイツ移民

 スタインウェイを筆頭に19世紀半ばはドイツ移民の時代だった。統計によると40年に2万4000人だったニューヨークのドイツ系移民の数は、80年には37万人に膨れ上がっている。

 ピアノ以外にもドイツ人が作ったニューヨーク名物は多い。例えば、ホットドッグ。71年頃にソーセージ加熱器を搭載したカートを開発したドイツ移民チャールズ・フェルトマンが広めた。そして、ビール。下面発酵のドイツラガーは爽やかな喉ごしで人気を呼び、それまで主流だった英国式エールの王座を奪う。屋外でビールを楽しむビアガーデンも市内に乱立した。ニューヨークでおなじみのデリもドイツ式総菜屋デリカテッセン(「うまい物屋」の意)が母体だ。

 20世紀に入っても、ドイツ系移民はニューヨーク文化の中心を支えていたが、アメリカの第1次世界大戦参戦(1917年)から突然、街をあげての「敵国」視が始まり、立場が一変する。メトロポリタンオペラからドイツ歌劇の演目が消え、ハンバーガーは「リバティ・サンド」、サワークラウトは「リバティ・キャベツ」と無理矢理、改名された。日本の戦時中の「敵性語」を思わせて笑うに笑えない。ドイツ系迫害の経緯は現在、公共図書館本館(マンハッタン)で開催中の特別展「オーバーヒア~第一次大戦と国民意識」(8月15日まで)を見るとよく分かる。

 ちなみにアメリカのビールが「薄くてまずく」なったのは、迫害のあおりでドイツ系ビール醸造所やビアガーデンが軒並み閉鎖されたためである。1920年施行の「禁酒法」も追い打ちをかけた。その後、うまいラガーが復活するには、21世紀の地ビールブームまで待たねばならなかった。

 スタインウェイ散策の後は、ピアノ工場のすぐ裏手にある新進の地ビール醸造所「シングルカット」で試飲はいかが?地元ビレッジ産、タンク直送の出来たて「生」で喉を潤せば、いつしか思いはドイツ系移民の光と影に寄る。
(中村英雄)

1879年に建立のスタインウェイ改革教会。スタインウェイ社は、従業員のために教会や学校、娯楽施設まで提供。完結した地域社会を築いた
スタインウェイ・ビレッジは、アストリア中心街とは隔離された住宅地。もはやドイツ系移民の町ではないが、往時の雰囲気が残る
スタインウェイ&サンズ本社。今もホール用グランドピアノではシェアは世界一。職人技が生むピアノは、米国に残る数少ない手作り製品

バックナンバー

NYジャピオン 1分動画