2015/06/05発行 ジャピオン816号掲載記事

この街に住みたい

アストリア❶

大富豪の名を借り誕生した住宅地

 クイーンズ区の北西の角、東西をイーストリバーと49ストリート、南北を36アベニューとディトマスアベニューが囲む広大な四角形アストリア。この土地の最初の入植者はオランダ人ウィリアム・ハレットで、1659年のこと。開拓はイーストリバーに突き出した岬の辺りから始まり当初は、ハレッツコーブ(ハレットの入江)と呼ばれていた。

 19世紀にはマンハッタンの富裕層の間でここに別荘を建てるのが流行した。1839年、これに目をつけて本格的な地域開発に乗り出したのが、毛皮商人スティーブン・ハルゼイだった。「教会と学校を作れば素晴らしい住宅地になる」。そう夢見て、同業者で億万長者のジョン・J・アスターに資金援助を求める。「街の名をアスターさまにちなみアストリアとしましょう」と大見得を切ったハルゼイは、2000ドル(当時)の出資は見込めると期待した。

 しかし、「どケチ」で有名なアスターが実際に提供したのは500ドルにすぎず、女学校の建築資金程度にしかならなかった。アスターは街の造成が進んでも一向に関心を示さず、ついぞ「アストリア」に足を踏み入れていない。

 ハルゼイが作った初期住宅地は、現在はアストリアビレッジの名で知られる。地下鉄N、Q線のアストリアブールバード駅で下りて、同名の通りを川へ向かって歩くと、15分ぐらいで27アベニューへの分岐点が現れる。その辺からアストリアビレッジが始まる。何かニューヨークらしくない空気を感じて見渡すと、風景の中に電線がある。教会がやたら多い。それに、映画「風と共に去りぬ」に登場する南部の豪邸みたいな建物が目を引く。

 27アベニューから14ストリートに折れると、豪邸街だ。多くが1840年代の建築で寝室が10近くある。ひときわ立派な建物は、旧ロバート・ブラックウェル邸。いまは、ギリシャ正教の教会になっている。それにしても、こんなにぜいを尽くした街なのに見向きもしなかった大富豪アスターの尊大さがいまいましい。

川の合流点「地獄の門」

 せっかくだから、もう少し足を伸ばして川を見に行こう。古びた町工場の裏手に野球場があって、脇に小公園がある。対岸に臨むマンハッタンのビル群は圧巻だが、川もよく見ていただきたい。ここは、イーストリバーとハーレムリバーの合流点で、通称「ヘルゲート」。そのまま訳せば「地獄門」で何やら恐ろしい響きだが、語源はオランダ語のヘレガット(「明るい海峡」の意)。ところが、実際、ここは航海者にとっては地獄なのだ。

 というのも、両河川とも潮の満ち干による複雑な逆流があって、常にここで危険な渦が発生する。しかも、川底には岩棚があり、これが航行をさらに困難にした。ここで座礁沈没した船は、数百隻を下らない。中でも有名なのが1780年に兵士の給料運搬のためにニューヨークからロングアイランドへ移動中、渦に巻き込まれ沈没した英国の軍艦ハッサー号。当時の価値で推定2〜400万ドル相当の金塊を積んだまま今も29メートル下の川底に沈んでいる。

 あまりの事故多発に業を煮やした米国陸軍工兵隊は、莫大な量のダイナマイトを使って水中の岩棚を何度も破砕。当時、ダイナマイトでの整地は盛んに行われていて、そもそも急峻だったマンハッタンの地形を今のように真っ平らにしたのもダイナマイトの力である。それにしても、85年10月に140トンもの爆薬を使って岩を吹き飛ばした時には、隣州ニュージャージーまで揺れたというから、とんでもない環境破壊である。ヘルゲートの中央には無人島ミルロックが浮かぶが、これもかつてあった二つの島を爆破で出た土砂でつなげて一つにしたものだ。

移民第一陣はアイルランドから

 大富豪アスターにそっぽを向かれてパッとしなかったアストリアビレッジだが、19世紀半ばから、飢饉を逃れたアイルランド移民が大量に流入してコミュニティーの下地が形成されていく。母国では英国の圧政に苦しめられた彼らは新天地に移ってもアングロサクソン系の富裕層の下働きを強いられた。それでも、米国には富も地位もない人間が大成功する可能性があった。ドイツの貧民から世界一の富豪にのし上がった人物に縁のある街に住む。それだけで明日への希望が湧いたのかも知れない。
(中村英雄)

旧ブラックウェル邸。1840年代の建築。今はギリシャ正教の教会に改装されている。14ストリート周辺には、豪邸が何軒も残っている
潮流が複雑に交差し危険な渦潮が発生するヘルゲート。川底には、何百もの難破船が沈んでいる。写真奥に無人島「ミルロック」が見える
26アベニューと21ストリートの角に残るアイルランド移民の墓地。ジャガイモ不作による飢饉を逃れ、この地に移住した先祖たちが静かに眠る

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